第221話 氷の人狼
大成を阻んだのは人型の獣――いわゆる人狼という存在であった。人狼は硬化した腕で大成の持つ直剣を弾き、後退させる。
大成を後ろへと押し込んだ人狼は間合いを詰め、自身が持つ鋭く禍々しい爪を振り下ろした。人狼によって後退させられた大成は迫りくる爪を直剣で防御。金属を打ち合わせたときのような音が、すべてが凍りついた死の街に響き渡った。
自身の爪を弾かれた人狼は獣とは思えないほど流麗な動きでさらに距離を詰めてくる。人狼によって放たれたのは最短距離を描いて大成の身体へと向かってくる貫手。丸太ほどもあるその手に刺し貫かれたら、胴体のどこに命中しても致命傷となるだろう。
だが、大成はその程度で恐れをなすほど経験は浅くない。こちらの胴体を刺し貫くべく向かってくる人狼の手を直剣で弾いて防ぐ。防ぐと同時に前に出て、直剣を振るった。人狼の身体に直剣が命中する、というところで――
人狼は後ろへと大きく飛んで大成の直剣を回避しつつ、狼へと変身。それは、先ほど戦った狼よりもさらにひと回り大きかった。変身した人狼は飛んだ先にあった凍結した建物の壁を蹴り、身体を刃へと変え、あたりに満ちる冷気を切り裂きながらそれを体制へと向かって叩きつけてくる。
大木のごとき大きさを誇る刃を、大成が持つ直剣で防げるはずもなかった。横に飛んで叩きつけられた巨大な刃を回避。刃と化した人狼の身体は凍結した地面を砕き、強い衝撃を巻き起こす。
そこから刃と化した人狼は再び人型形態へと戻り、跳躍をしながら大成に蹴りを放ってきた。茨のように尖った毛並みを持つ足が大成へと向けられる。振るわれた人狼の足は斧のような重さが感じられた。これもまたまともに命中すれば、胴体のどの位置であっても致命傷となるだろう。
しかし、こちらを一撃で仕留めうる攻撃を見せられても、大成が崩れることはなかった。こちらへと向かってくる足に対して直剣を振り当ててそれを相殺。蹴りを弾かれた人狼は後ろへと飛んで距離を取り、大成はその場に踏みとどまった。十メートルほどの距離を開けて、そのまま睨み合いとなる。
「…………」
この人狼もいままでと同じく――いや、それ以上の強敵であった。獣のごとき荒々しさと膂力、そこに人と同等レベルと考えられる合理的判断を下せる判断能力を併せ持っている。厄介なことこのうえなかった。獣と侮っていれば、容易に倒しうる力を持っている。恐らく、あの人狼はこの地獄を作り出したあの女が生み出せる軍勢の中でも強力なものであることは明らかであった。
「さすがというべきかしら。異世界から呼ばれたあなたの素性について私はよく知らないのだけど――その動きを見るに、素人ではないようね。強力な手札を出したのはいい判断だったわ。あなたもそうそう思わない?」
人狼の背後にいる女がこちらに語りかけてくる。
「…………」
大成は女の言葉に返さずに、そちらへと視線を向ける。
身体能力に優れる人狼をすり抜けて奴に攻撃を仕掛けることは難しそうだった。人狼は、自身を生み出した主であるあの女を守ろうとするはずだ。そうである以上、人狼は簡単にあの女を狙わせてくれはしないだろう。こちらを阻んでいるのがただの獣であったのならできたかもしれないが、奴は冷静な合理的判断を下せる人狼である。ただの獣のように誘導することも難しい。
「あら、無視しないでよ。つれないわね。異世界から呼び出されてろくにお友達もいないのだし、少しくらい反応してくれてもいいんじゃあないかしら?」
女はくすくすと笑いながらこちらへと話しかけてくる。その口調は、これから殺そうとしている相手に向けているとは思えないものであった。
『反応するな』
そこにブラドーの声が響く。
『奴の世界は自身と姉妹であるもう一つの片割れとだけで完結した存在だ。その外部にいる俺たちに話など一切通用しない。奴の言葉に反応したところで、こちらには理解できない意図の言葉が返ってくるだけだ。時間の無駄でしかない。鬱陶しいかもしれんが、完全に無視しろ』
ブラドーに言われるまでもなくそのつもりであった。奴がどのような意図をもってこちらに話しかけているのかは不明である。だが、意図がわからなかったとしても、こちらに対する邪魔であることに変わりはない。であるのなら、奴の言葉は徹底的に無視するべきである。それは、考えるはずもなかった。
「……意外と冷静なのね。せっかく邪魔してあげようと思ったのに。これなら私がアニマのほうにいるお友達のところに行ったほうがよかったかしら。彼のほうはあなたとは違って話しかけたら面白そうな反応をしてくれそうだし」
残念ね、と言って女は落胆の表情を見せる。それが人らしさを装っているのか、本心から語っている言葉なのは大成に判断することはできなかった。
「まあいいわ。現状であれば私たちが負けることはないだろうし、気長にやりましょうか。長引けばつまらないあなたもそのうち面白いところをみせてくれるかもしれないでしょうし」
大成は楽しそうに発した女の言葉に引っかかりを覚えた。
負けることはない。随分と自信のある言葉だ。その言葉からは慢心は感じられなかった。確かに奴らは大都市を一つ壊滅させるほどの力を行使できる存在である。対してこちらは三人だけで補給もろくに受けられない状態だ。普通に考えれば、いまの状況で「負けることはない」という言葉は純然たる事実ではあるのだが――
それがどうにもなにかが引っかかる。確証があるわけじゃない。ただ、奴の言葉面からなにかあるように思えてならないだけだ。
奴には、大都市を一つ滅ぼすほどの戦力を行使できる力以外になにかあるのだろうか? 相手は超常たる力を持つ竜である。そんなものがあっても、おかしくないように思えるが――
確証がない現段階では、断定すべきではないだろう。だが、なにかあるかもしれないというのは心のどこかに置いておくべきだ。奴がなにか隠されたカードを持っていたとしても、なんら不思議ではないのだから。
『いまの言葉、どう思う?』
大成はブラドーに問いかける。
『負けることはないという言葉か? 確かに引っかかるな。戦いの経験が豊富なお前がそのように感じたのなら、それをただ気のせいと決めつけるのは少々危険ではあるが――』
ブラドーはそこで一度言葉を切り、少しだけ考える間を置き――
『確証に足る情報がない以上、いまの俺たちにどうすることもできんな。奴の言葉がこちらを欺くためのただのハッタリである可能性も捨てきれない。いま考えるべきは、奴の言葉に関することでもないだろう。いま対処すべきなのは――』
ブラドーの言葉を聞きながら、大成は人狼へと目を向ける。
そこにあるのは、巨人と形容しても差し支えない体格をした人狼の姿。獣らしいぎらついた目をしていながら、そこにはどこか人らしい冷静さのようなものが感じられる。
奴の言葉が真実であろうがなかろうが、いま目の前に立ちはだかっている人狼をどうにかできなければ、その後ろにいる奴へ直剣の刃を突き立てることすら叶わない。その順序を間違うわけにはいかないだろう。それを間違ったことで、命取りになる可能性だって充分にあり得るのだ。
「さあ、せっかく強い手駒を出したのだし、どちらにも頑張ってほしいわ。こんな機会なんて滅多にないんだもの。楽しまないと損よね?」
あの女は相変わらず楽しそうな声でこちらに話しかけてくる。
「あなたのことはよく知らないのだけど、なにか特別な力を持っているのでしょう? 是非とも見せて欲しいわ。だって、人間でありながら特別な力を持っているなんてとてつもなく珍しいものね。あなたと一緒になったのが、あの忌み子でなかったのなら、是非とも手に入れたいところのだったのだけど――」
それができないのが残念なところねと、女は心から落胆した様子を見せた。
「そろそろお話はやめにしましょうか。私はもっとお話ししたいのだけど、あなたは相手になってくれないのだもの。本当に残念。あなたとはもっと違う形で出会いたかったわ」
女がそう言うと、その前に立ちはだかっている人狼が身に纏う空気が変容する。それを認識した大成は即座に身構えた。
身に纏う空気を変容させた人狼は大きく息を吸い込み――
力強く、それを一気に吐き出した。
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