第197話 冷たい街の新市街

 バーンズ・デネットは清々しい気持ちですっかり明るくなったローゲリウス新市街の大通りを歩いていた。


 やはり、酒はいい。嫌なことがあっても飲めばそれを忘れさせてくれるからだ。嫌なことがあったときは仕事をさぼって朝まで飲み明かすに限る。多少、金がかかるのがやっかいだが、知り合いがやってる店ならある程度は融通が利く。そういう風にうまくやっていくのが人生を楽しく過ごすこつである――と思う。


「こんなに清々しい気分だと帰って寝る気にもならんな。どうするか」


 バーンズは人通りの少ない石畳の道を歩きながら考える。


「なんだあれは?」


 遠くの空になにかが見えた。城のような建造物が空に浮かんでいる。かなり巨大な。はじめは酔っ払って変なものが見えているのかと思ったが、昨日大きな地震が起こってやけに街が騒がしかったことや、飲んでいた店に来た客たちがしきりに帝都がある方角に城のような建物が現れたことを話していたことを思い出して、バーンズはあれが例の建物かと納得する。


「……どっから現れたのかは知らんが、俺には関係ねえだろ。あんなものが空に浮かんでいたからと言って、酒の味が変わるわけでもない」


 むしろ、あんなものが空に浮かんでいるほうが方角がわかりやすくていいじゃないかとも思う。この街は古いせいか似たようなところが多い。区画整理が進んでいない旧市街に至っては迷宮といってもいいくらい入り組んでいる。鬱陶しい観光客に道を訊ねられる機会が減ってくれればうれしい限りだ。あれほど迷惑なものはない。


「あんなものが空に浮かんだところで仕事はクソだし、観光客がうるせえことに変わりはないしな。金が増えるわけでもねえ。あれのせいで金が増えてくれるのなら大歓迎だが」


 そのような都合のいいことが起こるはずもない。なにが起きようとこの世界はだらだらと時が流れていく。劇的な変化が起こるのは冒険小説の中だけだ。


「ま、俺は酒が美味けりゃそれでいい。酒さえ美味ければ多少クソでも許せるからな」


 バーンズはそうぼやき、思考を切り替えた。いま大事なのは空に変なものが浮かんでいることでも、クソみたいな現実に文句を言うことではない。これからどうやって時間を潰すかである。


 この時間では、大抵の店は閉まっている。現に、この大通りですら、人の姿はほとんどない。こんな時間でも酒が飲める店がやっていればいいのにと思う。そういうの、意外と需要があるんじゃないか? などと思いながら大通りを進んでいく。


 そのときだった。


 目の前から、女が一人歩いてくるのが見えた。青みがかった灰色の髪の若い女。それも、いままでバーンズが見たことがないほどの美人。その姿を目にしたとき、目玉に電撃を打ち込まれたかのような衝撃が感じられるほどだった。


「一人か姉ちゃん」


 バーンズは目の前から歩いてきた青灰色の髪をした女に声をかけた。


「あら、どうしたのかしら?」


 青灰色の髪をした女は足を止め、こちらに対する一切の不快感を見せずにバーンズの言葉に反応してきた。


「こんな朝っぱらから若い女が一人で歩いているのは珍しくてな。この辺は治安はいいほうだが、少し不用心かと思ってな」


 へらへらとした調子でバーンズは青灰色の髪の女に話しかける。


「不用心――そうかしら? これでも安全には気をつけているのだけど。あなたにはそう見えるのね」


 青灰色の髪の女は、どこか浮ついた調子でバーンズの言葉に返してきた。


「ところで一つ訊きたいのだけど、この男のこと知らないかしら? 教えてくれるとありがたいのだけど」


 青灰色の女はそう言って、写真を取り出してくる。そこに写っていたのは見知らぬ若い男。大陸の人間ではない。東にある島嶼連合の人間だろうか? そちらの人間が最近、観光に来るようになったのは知っているが、あちらの人間はどうにも見分けがつかない。


「いや、知らねえな。東のほうの人間にはまったく縁がなくてな」


 バーンズの言葉に青灰色の髪の女は特に落胆するわけでもなく「そう。なら仕様がないわね」と返してくる。


「なあ、あんたがなんでそんな男のことを探してるのかは知らんが、少し俺と付き合わないか? こんな時間に出歩いてるってことは暇なんだろ?」


「暇ではないけれど、まあいいわ。付き合ってあげましょう」


 一切の警戒心なく、青灰色の女はバーンズの言葉に答える。その言葉を聞いたバーンズは心の中で歓声をあげた。


 とんでもない美人を引っかけることができるとは。なんでもやってみるもんだ。大抵はうまくいかないが、時に思いがけないものを釣り上げることもある。


「へへ、話が早いな。じゃあ、どうするか。若い女が好きそうなところは――」


「別にそんなこと気にしなくていいわ。だって、あなた――」


 もうそこから動けないでしょう? という青灰色の髪の女の言葉を聞き、バーンズは気づいた。


 足もとが凍りついている。一体、なにが起こったのかまるで理解できなかった。


「あなたに対してなにも思うところはないけれど悪く思わないでね。付き合ってくれると言ったのはあなたでしょう?」


 青灰色の女はにこやかな笑みを見せる。相変わらず警戒心がまるで感じられないその笑顔は、いまのバーンズには魅力的なものではなく、人の姿をしているだけの得体の知れない『なにか』としか思えないものであった。


 バーンズの足もとから急速に冷気が駆け上がり、身体が凍結していく。一切苦痛のないそれは生きたまま捕食されているかのような恐ろしさがあった。


「ただの人間でしかないあなたが私たちに有効活用させてもらえるのなら本望でしょう? そう思わなくて?」


 自身の身体が足もとから凍結していく恐怖で、バーンズは言葉を返すことが一切できなかった。


 冷気は止まることなくどんどんとバーンズの身体を飲み込んでいく。気がつくと首から下がすべて凍りついていた。


「あら、なにも返してくれないのね。残念だわ。でもまあ、人間って所詮その程度よね。期待するものじゃないわ」


 青灰色の髪の女は落胆する様子もなく、どんどんと身体が凍りついていくバーンズのことを放置して再び歩き出した。


 助けてくれ。バーンズはそう言おうとしたが、声が出なかった。


「さて、どうしようかしら。さっさとあぶりだせればいいのだけど。ねえ、そちらはどうかしら?」


 青灰色の髪の女は誰かに話しかけるように言いながら、バーンズからどんどんと離れていく。もうすでにあの女は、凍結しつつある自分に興味がないのは明らかであった。


 完全に凍結する前にバーンズが見たのは、自分を含めたすべてが凍てついた街と、青灰色の髪の女に従うように並んでいる甲冑を身に纏った軍勢であった。

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