第86話 無力なる自分

 竜夫が目を覚ますと同時に、視界に入ったのはもう見慣れてしまったゲストハウスの天井だった。それを見て、今日もまた生き延びれたと思うと同時に、これからどうしたらいいのだろうという嫌な現実にも直面する。


 嫌な現実――それは言うまでもなく、病に倒れているみずきのことだ。重度の風邪に倒れている彼女をどうしたら救えるのか? 昨日から、そればかり考えている。


 いや、救える方法はある。ハル医師が言ったように、身体に竜石を埋め込む手術を行えば、みずきのことを救えるかもしれない。


 だが、現状では手術に必要になる純度の高い竜石を手に入れる手段がない。救える手段があるというのに、その手段を取れないというのはとてつもなくもどかしかった。動かなければと思うのだが、同時にどう動いたらいいのかがわからない。


 自分の無力さが、本当に嫌になる。せっかく一人救うことができたのに、再び訪れた危機になにもできずにいる。自身の身に余るような大きな力を手に入れたというのに、どうしてなにもできないのだろう?


 竜夫はそんなことを思いながら、身体を起こし、ベッドから下りた。それから寝室を出て、歯を磨いて顔を洗って気分をリフレッシュする。しかし、歯を磨こうが顔を洗おうが、頭の中には常に重度の風邪で倒れ、現在進行形で苦しんでいるみずきの姿がちらついて、気分が晴れることはなかった。


「……くそ」


 竜夫は洗面所で小さく言葉を漏らした。目の前にある鏡に自分の姿が映っている。ひどい顔をしているな、なんて思った。


 そういえば、ハル医師はどうしているのだろう? それが気になった。恐らく彼女は昨晩ずっとみずきに付きっきりだったはずだ。医師なので恐らく徹夜には慣れているとは思うが、いくらなんでもずっと寝ずにはいられないだろう。彼女にだって休息は必要だ。


 竜夫はそう考えて、みずきの部屋へと向かう。すぐに扉の前に辿り着き、竜夫は一瞬だけ躊躇したのちに扉をノック。すると、すぐに「入っていいよ」という声が扉の向こうから聞こえてきた。竜夫はそうっと扉を開ける。そこには昨日と同じ光景が広がっていた。病に倒れるベッドで苦しんでいるみずきと、その横にある椅子に腰かけているハル医師の姿。それは、まったく同じ一日ではないかと思うほど同一に思えた。


「眠れたかい?」


 竜夫が部屋に入るとすぐに、ハル医師が身体をこちらに向けて話しかけてくる。


「ええ、まあ一応は。でも、こんなときなのに、熟睡してしまうのはなんか申し訳ないというか――」


「それは違うよ。こんなときだからこそしっかりと睡眠を取るべきなのさ。無論、私としてもきみのそういう気持ちは理解できる。でも、その睡眠を取るのを怠ったせいで、失敗してはいけない場面で失敗してしまうかもしれないからね」


「先生のほうは、大丈夫ですか?」


「大丈夫だよ。これでも仮眠は取っているからね。そういうのは慣れてるからさ。心配してくれるのはありがたいけど、私の心配をするのはきみの仕事じゃない。私のことを心配している暇があるのなら、きみはきみがなすべきことをやったほうがいいよ。これでも私は医者なんだから」


 いつも通りの口調でそう言ったハル医師だったが、その言葉には少しだけ疲れがあるように感じられた。


「まあでも、こちらも人間だから限界があるのは確かだけどね。どうしても無理になったらそのときはきみに頼るとするよ。そのときはお願いね」


「……はい」


 ハル医師の言葉を聞いて、竜夫は少しだけ安心できた。


「状態は、どうですか?」


 竜夫はおずおずと、ハル医師に問いかける。少しでもよくなっていてくれ、という望みを言葉に滲ませながら。


「残念だけど、まだ状態は好転したとは言えないね。解熱剤の投与は行ったけれど、まだまだ油断はできない状況かな」


「抗生物質とは、使ってないんですか?」


「うーん、どうだろう。抗生物質は強力だけど、細菌性の感染症にしか効果がないからね。もしかしたら、彼女の病気が未知の細菌性の感染症である可能性は否定しきれないけれど――現状、未知の感染症であるという根拠はまったく見られない。風邪の原因の多くはウイルスだからね。だとすると、考えなしに投与するのは少し危険かな。抗生物質を投与するのなら、もう少し様子を見たほうがいいね」


「……そう、ですか」


「まあでも、彼女の病気が細菌性の感染症である可能性も否定しきれないから、抗生物質の投与も選択に入れておくよ。ところで、彼女はなにかの薬を服用していたり、薬を服用した際に、重度の副作用を起こしたとかあったりするかな?」


「薬の服用はないです。薬のせいで副作用を起こしたかどうかは、わかりません」


 健康であっても、薬によって重度の副作用を起こす可能性は充分あり得るだろう。それが、異世界のものとなればなおさらである。


「そうか。彼女もきみと同じくわけありのようだし、強い薬の投与は慎重になったほうがよさそうだ」


 医療っていうのは難しいね、なんて言葉をハル医師は漏らした。


「少し残念なお知らせがある。昨日、純度の高い竜石が手に入らないかと思っていくつか伝手を辿って連絡を取ってみたんだけれど、どうやら、どこかが買い集めているらしくて、市場に出回っていないようでね。このぶんだと私のところに回ってくるのはだいぶ先になるらしい」


「…………」


 その言葉を聞いて、愕然とするしかなかった。


「この調子だと、手に入るのは数か月先になってもおかしくないらしい、というのを売人から聞かされたよ。果たして、どうしたものかね」


 ハル医師はそう言って、ため息をつく。


「手に入れる方法はない、ってことですか」


「正規の市場だと、そうなるね。裏市場だと、どうなっているのかはわからないけれど、どこかが買い集めているとなると、裏市場でも似たような状況だろう」


 その真実は、竜夫の心臓を深々と貫くに等しかった。


 もう、みずきが自身の力で病を克服できるかどうか祈っていることしかできないのか? もうできることはなにもないのか? 運命というやつはどこまでも残酷だ。竜夫の脳内を呪詛のような言葉が駆け巡る。


「ん、電話が鳴っているようだぞ」


 ハル医師にそう言われて、扉の向こうから電話をベルが鳴っていることに気がついた。


「少し、出てきます」


 竜夫はそう言って軽く会釈し、部屋を出て、電話のある居間に向かう。電話のベルは、この世界すべてに鳴り響いているかと思うほど大きな音に聞こえた。


 ここにかけてくる奴は一人しかいない。もしかしたら、純度の高い竜石を手に入れる手段が見つかるかもしれない。そう一縷の望みをかけて、電話を手に取った。


『ようあんた、元気にしてるか?』


 受話器から聞こえてきたのは、言うまでもなくクルトの声であった。


「……まあ、一応な」


『そのわりには浮かない声をしているな。一緒にいた彼女にフラれでもしたか?』


 クルトは相変わらず飄々とした調子で喋っている。


「別に……そういうわけじゃないさ」


 みずきが病気で倒れていることは言わないでおいた。わざわざ言う必要もない。


『まあいいや。ちょっとばかしあんたに話があってな。協力してくれないか?』


「なんだ?」


 竜夫はすぐさま言葉を返した。みずきが倒れているいま、クルトたちの頼みを聞いている場合ではないのだが、運の悪いことにこちらは奴らに二つも借りがある。聞かないというわけにもいかないだろう。


『随分と素直だな。もっとごねられると思ったが――まあいいや。こちらとしてもそれはありがたい。結論から言おう。あんたには竜の遺跡の発掘作業の護衛をやってもらいたくてな。多少危険はあるが、あんたの腕っぷしなら結構儲けられるぜ。どうだい?』

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