第58話 異界の先に……

 階段を降りた先にあったのは扉だった。鉄のような素材でできた、重そうな扉。その奥からは禍々しい『なにか』が漏れ出ている。その先から滲み出ている『なにか』を言葉にすることは難しい。だが、それがよくないものであるのは明らかだった。


 竜夫は重く閉ざされている扉に手をかける。ノブを回し、押してみると、甲高い音を立てながら扉は開かれた。


「……っ」


 扉を開いた途端、いままでよりも遥かに濃密な言葉にできない『なにか』が顔に吹きつけてきて、竜夫は顔をしかめた。そこは熱いわけでも、冷たいわけでも、異臭がするわけでもない。ただ暗闇が広がっているだけだ。それなのに、何故ここまで忌避感を覚えているのだろう? この場所で非道な人体実験が行われていたことを知ったせいではないように思えた。いまもなお、その理由はよくわからない。しかし、この先に満ちているものがいいものではないのは明らかだった。


 竜夫は、小さく深呼吸し、扉の先に一歩踏み出す。足を踏み入れると同時に、いままで感じていた異様な『なにか』が身体に強くまとわりついてくる。身体に重りをつけられたようにも、重い泥の中を進んでいるようにも思えた。だが、自分の身体になにか異常なものがついているわけではない。


 竜夫は前を見る。廊下には上の階と同じように転々と明かりが点けられていた。明かりは同じようにつけられているはずなのに、この階は上の階よりも遥かに暗いように思えてならない。気のせいであると思いたかったが、この異様な『なにか』を気のせいとするのはとても危険なのは明らかだった。


 だが、ここで立ち止まっていても仕方がない。この先に、自分が求めていたものがあるかもしれないのだ。ならば、危険であっても進まなければならない。そうしなければ、持たざる自分がこの世界でなにかを得ることはできないのだから――


 竜夫は一歩一歩、身体にまとわりついてくる闇をかき分けながら、廊下を進んでいく。足もとが見えないほど暗いわけではないのに、何故か早く歩を進めることができなかった。一歩進むごとに、いまもなお感じられる異様な『なにか』が強まっているような気がする。


「後ろは、大丈夫か?」


 竜夫は前に進みながら、自分の後ろを歩いているはずのアレンに話しかける。


「ああ。いまのところはな。しかし、こうも静かだとなにかあるんじゃねえかとも思えてくるな。そろそろ、回復しだす奴も出てきてるっていうのに――」


 すぐに、いままでと変わらない様子のアレンの声が聞こえてきて、竜夫は少しだけ安心した。だが、背後を振り返ってその姿を確認することはできなかった。自分が警戒するべきなのは前であるという以上に、もしかしたら、いま自分の背後にいるのはアレンの声をした『なにか』であるかもしれないと思ってしまったからだ。


「そういえば、あんたらはハンナの力を分け与えられているんだろう。他の奴らがどうしているのかとかわからないのか?」


「普段ならわかるんだが――残念なことに、この施設に侵入してから、どうにも感覚がおかしくなっていてな。いまは、他の奴らがどうしているのかまったくわからん。時間通りなら、そろそろ脱出し始めているはずだが――」


 アレンの声からは不安が感じられた。


「となると、他の奴らからもあんたの気配が感じられなくなっているんだろう? 助けに来たりはしないのか?」


「悪いがそれは諦めてくれ。敵を無力化できるといっても、この作戦が危険なものであるのは変わらない。おれも含めて、自分以外の誰かを助けにいくような余裕などないよ。自分の身を守るのが精一杯だ。なにより、おれたちは生きて帰還することが最優先だと命令されている」


「……そうか」


 誰も助けには来ない。それは訊く前から薄々わかっていたことだったが、このように言葉として突きつけられるのは気が滅入るものだった。


「じゃあ、お互いさっさとやること済ませてここから――」


 脱出しよう、と言おうとしたところで、竜夫の言葉は止まった。竜夫は足を止め、手を伸ばして、背後のアレンに静止の合図を出す。


「おや? おやおやおや? ポールくんがなかなか戻ってこないので、どうしたのものかと出向いてみれば、思わぬ来客があったようですねえ」


 正面から壊れたような愉快な声が響いてくる。正面には異様なほど濃密な暗闇が満ちていてその声の主の姿はまったく見えない。


「ああ、そういえばなにやら不届き者がここに侵入していたのでしたね。わたしには特に実害があったわけではないのですっかり忘れておりました。まあ、わたしの仕事はここの警備ではないので、別にどうでもいいことでしょう。そんなの、知ったことじゃありません」


 正面にいる何者かは、こちらの様子を一切気にすることなく愉快そうに喋っていた。


「ですが、見なかったのなら気づかないふりをしてもいいと思うのですが、こうして姿を見てしまった場合はどうすればいいのでしょうね。わたしとしては勤勉であるという自負があるので、見過ごすことはできないというかなんというか――」


 どうしたらいいと思います? と、その声の主は竜夫たちに語りかけてくる。


「逃げろ」


 竜夫は小さく、前にいる何者かに聞こえないように、背後にいるアレンにそう告げた。アレンは少し間を置いたのち、「……わかった」と小さな声で返答する。竜夫は一瞬背後に視線を向ける。アレンが逃げる姿を確認し、地面を蹴って前に踏み出そうとしたところで――


「……!」


 背後にいたアレンの姿が持ち上げられたのが見えて、動きが止まった。アレンの身体を持ち上げていたのは、闇そのものとしか思えない『なにか』であった。


「おや、困りますねえ」


 前にいる何者かは相変わらず愉快な声を発している。


「警備はわたしの仕事ではありませんが、勤勉である以上、こうして姿を見てしまっては逃がすわけにはいきません。つい捕まえてしまいました。首尾よく捕まえたのはいいですが、どうしたものでしょう。このまま逃がすってわけにもいきませんしねえ」


 実に困ってしまいました。なんて声が闇の奥から聞こえてくる。その声の調子は、明らかにこの場にそぐわないものだった。


「ところでそちらは――おや、そういえばどこかで見たような覚えがありますねえ。もしかしてあなた、どこかでお会いしたことがありましたか? 最近、外部の人間と顔を合わせることはなかったんですが――」


 どういうことでしょうねえ? なんて声を響かせたのち、「ああ、思い出しました」と声を上げた。


「あなた、あれですね。あのお方に助け出された実験体第一号じゃあありませんか。どうしましたかこんなところに? もしかして帰巣本能でもおありで?」


 闇の奥にいる何者かは、相変わらず的外れな調子の声を響かせながら、こちらを煽るような言葉を発している。それを聞いてもなお、竜夫はその声に返答することはできなかった。


「まあ、別に帰巣本能があろうがなかろうがどちらでもいいんですが、こうして姿を現した以上、そのまま逃がすってわけにもいきませんねえ。なにしろあなたは有益な検体ですからね。ここを逃せば、我々と同じような存在を調べられる機会などほかにはないでしょうし、果たしてどうしたものか」


 うーん、と闇の奥から大仰な声が聞こえてくる。相変わらずその姿は見えなかったが、こちらを煽るためにわざとやっているようには思えなかった。


「まあでも、まずは先に済ませられることを済ましてしまいましょうか。そちらは……おや、あの女の手の者ですか。となると、有益な情報は得られないですし、わざわざ生きたまま捕らえる必要はありませんね。さっさと処分してしまうのが吉なのですが、どうしましょうか」


 闇に捕らえられたアレンは必死でもがいているものの、彼を捕らえている闇がはがれる様子はまったくない。


「あ、そうだ。どうせ始末するのなら、わたしの探求の糧になってもらいましょう。あなたとしても、ただ殺されるよりそちらのほうがいいでしょうしね。よかったじゃないですか。数多く意味もなくなにも為さずに死んでいく中、あなたは我々の進歩の糧になれるのですから。なんと喜ばしいことなのでしょうか。光栄に思ってくれて構いませんよ?」


 闇の奥にいる何者かが、誰に語りかけているのか判然としない愉悦に満ちた声を響かせると同時に、竜夫のすぐ横を『なにか』が高速で駆け抜けていくのが感じられた。竜夫が、背後を見ると――


 いびつな形をした、生物のような『なにか』がアレンの身体に食らいついていた。闇に捕らえられ、まともに動くことができなかった彼はなすすべなくそいつに首をかみ千切られた。首をかみ千切られたアレンから鮮血が吹き上がる。アレンの首をかみ千切ったそいつは、アレンの身体をそのまま地面に引きずり下ろし――


 動かなくなったアレンの身体をむさぼり始めた。


 ばりばりと骨を砕きながら。


 ぐちゃぐちゃと肉を潰しながら。


 あたりに血液と肉片をまき散らしながら、ただ一心不乱にアレンだったものを食らいつくしていく。


「おやおや。もともと同族ですから躊躇するかと思いましたが、そんなことありませんでしたね。まあ、予想できていたことですが」


 闇の奥にいる何者かは、竜夫のすぐ後ろで行われているこの世のものとは思えないおぞましい光景にまったく嫌悪感を抱いているような声には聞こえなかった。


「あれ? どうしましたか実験体一号? そんなに怖い顔をして」


「お前……」


 ぎり、と竜夫は歯を軋らせた。


「ああ。もしかして彼を食べているアレのことですか? アレはまあ、あまり利用価値のない検体を使って最近作った新型の兵器なんですが、どうです? 見た目は非常に醜いですが、簡単な命令を訊いてくれますし、兵器としての性能はなかなか優秀ですよ。どう思います? まだわたしとポールくん以外には見せていないので、他に誰かの意見を訊いてみたいところなのですが」


 闇の奥にいる何者かがそう言っている間にも、生物のような『なにか』はアレンの亡骸を貪っている。それに貪られている彼には、生きていた頃の面影はすでにまったく残っていなかった。


「ふむ、その様子を見るとどうやら好意的な意見を持っていないようですねえ。非常に残念ですが、仕方ありませんね。他人がどう思うかを強制する権利はありませんし」


「お前は……なにをした?」


 竜夫は、前にある闇に向かって語りかけた。


「なにを、と言われましても返答に困りますねえ。なにしろわたし、興味のある分野には色々と手を出しているものですから。その質問をわたしにするあなたが求めているものは一体なんなのでしょう? なにを求めているのかを言ってもらわないと、わたしは察しが悪いものですから、答えられるものも答えられませんよ」


 この施設でなにが行われているのかを知っている竜夫には、アレンを貪るあれがなんなのか訊くまでもなくわかっていた。


 あれは、自分と同じように異世界から召喚された誰かのなれの果てだ。それ以外ありえない。


「どうしました? 遠慮することはありませんよ。真理を追究する者としては、質問にしっかり答えることも必要ですからね。わたしの知性が及ぶ範囲でならなんだって答えましょう。あなたが望む答えを言えるかどうかは保証できませんけどね」


 闇の奥にいる何者かは、竜夫がどのような感情を抱いているのかまったく気にする様子はない。その喋り方が、声が、竜夫の怒りを増幅させた。


「……殺す」


 竜夫は、耳にこびりついて延々と響き続けるアレンを貪る音を追い払うように言う。


「いきなり物騒なこと言いますねえ。わたしは荒事の類は好きじゃありませんし、得意でもないんで、できればやめていただきたいのですが――その様子だと、そういうわけにはいかないようですねえ。いやはや、困りました」


 竜夫は、その言葉に返答することなく、その手に刃を創り出した。


「とは言っても、あなたにやられるわけにもいきませんし、自分の身くらい自分で守らないといけないでしょう。そういうわけなので――」


 闇の奥からそんな声が響くと、竜夫の後ろからなにかが飛来する。先ほどまでアレンだったものを貪っていた生物のような『なにか』だった。竜夫は、自らに襲いかかるそれを、前に飛び込んで回避する。


「一応兵器ですし、実戦でどのように動くかは調べておかなければなりません。あなたが相手であれば、非情に有益な情報が得られるでしょう。ああ、困りました。メモを忘れてきてしまいました」


 気の抜けた様子でそんなことを言うその声の主を心から殺してやりたいと思った。だが、目の前にいる異世界召喚された誰かのなれの果てを無視してそっちに飛び込むのは明らかに危険だった。


 仕方ない。


 あの、自分とは違い幸運に恵まれることなく、あのような姿になってしまった誰かを楽にしてあげよう。


 そう判断した竜夫は、異世界召喚された誰かのなれの果てを滅ぼすべく、硬い床を蹴って、一気に加速し、そいつに向かって踏み出した。

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