メルクマール

春義久志

メルクマール

 8日前、今年初めてこの街に雪が降った。そして今日、8日ぶりに雪が降り、雪が積もった。

 曖昧な明るさとは対照的な、布団と毛布越しでも浸透してくる冷気で目を覚ました。はみ出していたつま先は、すでに若干かじかんでいる。今日が平日だったら、自主休校を決行していたかもしれないと、そんなことを考えてしまうほどの冷え込み。

 身を起こし、布団の放つ重力を振り払う。目指すのは、こぼれる光の源。一歩近づくたびに、部屋に漂う冷気はその強さを増していく。もしかしたらと浮かんだ期待もそれに比例するように大きくなっていった。そして、金属製のクレセント錠に触れたときのあまりの冷たさに、その期待感は確信へと変わった。

 カーテンから開放された光が一瞬のホワイトアウトを引き起こす。まばゆさにようやく慣れた目を見開いて外を見渡した。灰色のアスファルト、茶色い屋根、薄汚れたアイボリーの外壁、小さな窓から見える世界のすべてに、滔々と、そしてしんしんと、雪が降り注いでいた。一見すればモノトーンのはずなのに何故だろう。いつもよりもずっと、世界が彩られているように感じた。

 8日前に降った雪はその日の夜中のうちに止んでしまって、翌朝にはすでにほとんど溶けていた。昼のうちに白く彩られた世界を目にするのは、一年以上ぶりかもしれない。寒かったわけだ。

 時計を見ればもう昼が近かった。低血圧の自分を毎朝叩き起こすはずの両親は、昨日のうちに北の大地へ旅行に出かけてしまった。きっと、雪まつりの会場に付く前から、新千歳のターミナルを出た時点で、年甲斐も無く二人で雪にはしゃいでいる光景が目に浮かぶ。

 ブランチの買い出しをするとしよう。スーパーでもいいけど、今日はコンビニがいいかな。あんまんと角煮まん、ホットスナック。厚手のコートとスマホもいじれる万能手袋、ちょっとしたヒーローみたいで気に入っているマフラーを手に取り、リビングを発った。目覚めの際の気重がいつのまにか霧散していたのは、誰もいない我が家で一日気兼ねなくのびのび出来ることを思い出したからだ。両親のようにいい年こいて、積もった雪に心が踊っていたからではない、断じて。


 「なにしてんの」

 「ディストピアごっこ」

 「ちょっと何言ってるかわからない」

 「より正確には核の冬で寒冷化した地上に降り積もる雪に覆われて見えなくなっていく誰ともしれない死体ごっこ」

 「ふーん、ニッチじゃん」

 「エッチじゃん、みたいに言うな」

 コンビニで買い出しを済ませた帰り道、公園のベンチに人影を見つけた。降りしきる雪の中、両ポケットに手を突っ込み、帽子を目深に被りながら、だらしなく背もたれにもたれかかっている姿は、久々に目にする元同級生、我が友人のものだった。

 「こんな寒い日にやらなくたっていいだろうに」

 「寒くなきゃ雪降らないんだからそもそも成立しないだろ」

 「どうせやるならもっとこう、全身煤けてるとか、衣類がボロボロだとか、そもそもベンチに座ってないで、地べたに転がってるとかさぁ」

 「凝り性かよ。そんなことしたら寒いだろ?」

 「じゃあなんでやったし」

 帽子を被ったまま人の顔を見ようともしない友人の小柄な身体にも、雪が積もり続ける。このペースが続けば、一時間もしないうちに、真っ白になってしまうだろう。

 「となり、いいか?」

 「死体だから一向に構わんけど」

 「そもそも死体なら喋らんだろうに」

 「実は死体の正体はゾンビだったんだ」

 「趣旨が変わってんじゃねーか」

 座面の雪を払い、となりに座った。友人に倣って空を見上げる。降ってくる雪の粒は、目覚めた時よりも大きくなっている。大きく重く湿った雪、いわゆる“ぼた雪”というやつだろう。この街では珍しい。間違いなく今年一番の大雪だろう。もっともこんなのが毎週来られても困る。こういうのは、年に一回くらいから楽しめるのだ。

 「捨ててなかったんだな、そのジャージ」

 「着てなかったから、捨てるのも勿体なくてな。部屋着に使ってんだ」

 着用する前に転校してしまった、俺とも同じ柄の、転校前の指定体操着。病気が原因ですっかり痩せてしまった身体には、いまや大きすぎる。


 「もっと厚着してこいよ、いい加減寒くないだろ」

 「ちょっとクールダウンしたかったから、これくらいで丁度いい」

 「やせ我慢すんなって。風邪引くなよ」

 「馬鹿だからへーきへーき」

 中学の三年間、いつだって俺より良い成績をキープし続けた人間が何をおっしゃる。

 「中華まん二個あるけど、食べる?」

 「具は?」

 「あんこと角煮」

 「プレーンが一番好きなんだけど」

 「いらんならやらんが」

 「ありがたく頂戴しやす」

 上半身を起こし帽子を取った友人は、ゴマをするように手を擦っている。調子のいいやつだ。角煮まんを受け取った、寒さのあまり赤くなった両手は、なぜか絆創膏でいっぱいだった。もう冷めかかってるじゃんと文句と角煮まんを口にする横顔を、横目でこっそりと盗み見た。会話を交わすのはいつ以来だろう。ましてやこんな馬鹿話、本当に久しぶりだと思う。病気になる前と、顔つき自体はさほど変わっていないはずだ。それでもやはり、どこかが決定的に違う。それはたぶん、病気のせいで痩せたからでも、伸びた髪のせいでもないだろう。

 「学校、どうよ」

 「転校して半年以上経ってから聞くことか」

 「しょうがねえだろ、その間ほとんど話ししてなかったし」

 俺の通う――こいつの通っていた高校まで、通学時間おおよそ70分。対して、今こいつが通っているのは、こいつの自宅から徒歩で10分ほど。かかる時間がまるで違うから、顔を合わせなくなったとしても、不思議じゃないだろう。

 本当に理由はそれだけか?と心の奥で聞き返す声を無視しながら、そう答えた。 

 「ぼちぼち。最初の挨拶で事情は話したし、どっかから情報も伝わってたみたいだった。もっと引かれるかとも思ってたけど、思いの外だった」

 「なによりで」

 「当時は気づかなかったけど、どっちかというと珍獣を見る目だったな、ありゃ。新学期早々転校してくる生徒なんかそうそういないだろうし」

 「興味津々だったのはそこじゃないと思うんですけど」

 「でも実際、可愛がってもらってるかな。特に女子」

 「とうとうモテ期到来か」

 「というよりおもちゃにされてる」

 珍獣からおもちゃへのジョブチェンジは、昇格と降格の果たしてどちらなのだろう。

 「実質生まれ変わって一年生みたいなもんだから、勉強とか参考になるっていうか、頼れる先輩っていうか。あえて言うなら姉ちゃん、みたいな」

 「念願かなったじゃん」

 「そんないいもんでもねえってことはわかった」

 「なんだお前その持たざるものを見下す余裕っぷりは」

 「欲しかったらお前もなってみるこったな。みんなお姉ちゃんぶってくるぞ」

 なはははと、お前も笑えとばかりに笑っている。笑えるかっての。

 とうの昔にあんまんを食べ終えていた俺に続いて、ようやく角煮まんを食し終わったようだ。随分とゆっくり食べていると思ったが、そうではなかった。昔のようにかぶりつけるほど、こいつの身体はもう、大きくはないのだ。


 「そんなこんなで、友達とか友達の友達に誘われて、人生初のチョコ作りなんてなことになってさ」

 「お赤飯炊かなきゃだな」

 一体相手はどんな人なのだろう。ぶっきらぼうなくせにどこか寂しそうな俺様系か、糸目の腹黒優男か、いいや今どきは男の娘だってあり得るかもしれない。可能性は無限大だ。

 「バカタレ。友チョコだよ友チョコ。仲間内で作って交換すんの」

 「衝撃のあまり、あんまんが喉に詰まるかと思ったけど、お兄さんホッとしました」

 「お前が兄貴とか死んでも嫌だな」

 「割と傷つくんですけど」

 「せめて姉になって出直してこい」

 「無茶言うな」

 「なりたくてなれるんなら、自分が元に戻ってるつうの」

 自虐に乗っかれるだけの勇気はなく、友人の乾いた笑いは湿っぽい雪に覆われて消えていく。

 「それにしてもお菓子作りって結構難しいんだわ。ガキの頃に何度か手作りチョコ貰ったことあったけど、こんなに苦労してたのかと思うと、もっと感謝しつつ味わえばよかったって、あの時くれた子に今謝りたい気分」

 「ちょっと待ってそんな話聞いてないんだけど」

 「あれ話したことなかったっけ?」

 「みっともないけどチョコほしいとか爆発すればいいんだとか、2月半ばの帰り際に散々ぼやいてたのを、心の奥でせせら笑ってたんだな。許せない、絶対に、お前だけは」

 「被害妄想がすぎる」

 「てか、くれた子は結構物好きだな」

 「失礼な。これでも10歳くらいまでは、我ながら結構可愛いショタっ子だったんだぜ」

 「中学の頃の肥満体半歩手前のわがままボディからは想像もつかないんだけど」

 げに恐ろしきは成長期の食欲なり、か。

 「ま、下地がいいからこその今のこの美少女っぷりですよ。どや」

 「美少女はぶかぶかの男子校ジャージのままで近所をぶらついたりしないと思うんですけど」

 「そこはほら、ギャップ萌えってやつ」

 「自分で言うと台無しだよ」

 「てか、こんなとこで油売ってないで、準備しろ準備」

 この週末に作っとかないと、当日に間に合わないのではないかと、いらぬ心配をしたくなる。

 「それがさぁ」

 本日一番の大きなため息とともに、こんどは友人のボヤキが始まる。

 「お菓子どころか料理すらろくにやったことなかったもんだから」

 幽霊のように、胸の前でだらんと下げた手には、さきほども気になった絆創膏の数々。なるほどそれが原因だったのか。人のことは言えないが、ずいぶんと不器用なものである。

 「挙句の果てに、うっかり流し台に、失敗したチョコ流しちゃって」

 「あー」

 「業者さん呼んで排水管見てもらって、母さんにめっちゃ怒られて父さんや妹にも呆れられて」

 「不貞腐れて家を出てきたと」

 「ご名答」

 「一言いいか」

 「言うだけ言ってみ」

 「馬っ鹿でぇ」

 「だから風邪引かないのさ」

 「まあ馬鹿なのはよくわかったから、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないか。インフルなんかどっかで貰ってみろ、学校に行けなくなるぞ」

 「やー、なんかいろんなことがどうでも良くなってきたっつうか」

 「今ここでやめたら、犠牲になった排水管はどうなるんだ」

 「いつだって世界は誰かの犠牲で成り立ってる。死にゆく運命だったのだ」

 「友達や友達の友達、楽しみにしてるかもしれないだろ」

 「どうせおもちゃくらいにしか思ってないし」

 どこかで変なスイッチが入ってしまったらしい。上手く言えないけど、そういうのは、たぶん。

 「よくないぞ」

 「わかってるさ。わかってるけど、わかんないんだよ」


 近くにあったゴミ箱に向かって、角煮まんの敷き紙を丸めて投げつけた。風のせいで大きく逸れ、ゴミ箱から外れたそれを取りに行くこともしないまま、友人は一つ息を吐いた。ぼやき始める前の今日一番の大きさを早くも更新した白い息は、あっという間に見えなくなった。

 「やりたくてやったことがうまく行かなくて、なりたくてなったわけじゃないことには振り回されて、なんかどうしたらいいか、わかんなくなってさ」

 チョコの失敗だけでそんなめげるな。喉まで出かかったそんな言葉をぎりぎりで飲み込む。きっと今日の失敗は、今日“だけ”の失敗ではない。俺の知らない、いや俺が見て見ぬふりをしてきた、友人のこの一年のすべてが積み重なっているのだろう。

 希望していた高校の入学式を控えた4月1日に、病気になったと本人から連絡があった。病名を知らされたときは、エイプリルフールの冗談だと思ったものだ。

 青天の霹靂に泡を食らったのは、無論俺だけではなく、俺と友人が通う予定の男子校もその一つだった。連絡を受けた学校は、教育委員会や保護者会など関係各所と連絡・協議を重ね、結果として、友人が病院から退院してくるより先に、友人が学校に通えるようになる特例措置を取ることを発表した。対応が早かったのは、かねてより、男子校ないしは女子校の生徒に、急性異性化症候群発症者が出た場合の対応について、問題となっていたからかもしれない。いずれにせよ学校側は下すべき判断を下した。迅速な対応は、多方から称賛を浴びた。同様のケースが起きた場合の、他校が取るべき対応の先駆けになるものだと。

 問題があったとすれば、その判断がくだされるよりも先に、当の本人が、自宅からほど近い共学の高校への転校を決意してしまっていたことくらいだろう。

 スマホにそっけなく、学校辞めたと連絡を貰った日のことを思い出しているうち、友人が俺に声をかけた。

 「雪が積もるとさ、その中に埋もれたくなったりしないか」

 「駆け回って処女雪に足跡をつけたり、雪だるまを作ったり、そういう方が好みだな」

 「小学生か」

 鼻で笑った友人の声は、先程までと違う。この降り止まないぼた雪と似ていて、少し湿っぽい。

 「こんなふうに降り止まない雪が積もって、そこに埋もれて。なんにも見えなくなって、誰からも見えなくなって。何もかもまっさらに、なかったことになってくれればって、そんなしょうもない空想をさ」

 したくなるときがあるんだよ。くぐもった声に気づいて、見上げていた視線を隣に移した。いつの間にか、ベンチで膝を抱えてうずくまっていた友人を白が覆っていく。改めて、その身体の小ささに驚いてしまう。ベンチの周りの足跡も新雪にかき消された。止まない雨はないというが、止まない雪がもしあるとするならば。友人が一歩も動かずに居続けられるのなら、口にした願いの通り、全部が真っ白のなかに消え去ることは出来るのかもしれない。


 だとしても。

 俺はそんなのはごめんだ。


 「おれはそろそろ帰るけど、どうする」

 「もう少し、こうしてる」

 「わかった」

 見えっ張りだよ、ほんと。

 ベンチから立ち上がりながら、ぽん、と帽子の上から友人の頭をはたいた。衝撃で、積もった雪がばふっと剥がれ落ちる。

「寒いだろうから、風邪引かんように貸しとく」

 少しだけ顔を上げて、俺が頭に置いたものを怪訝そうに手に取った。

 「無駄に派手」

 「暖かそうだろ」

 「こういうの、趣味じゃない」

 「それぐらいで丁度いいのさ」

 雪に覆われて見なくなりかけていた敷き紙を拾い上げて、ゴミ箱にきちんと捨てた。

 「それだけ目立つなら、たとえ周りが全部真っ白になっても、お前がどこにいるか見つけられるだろ?」

 振り返って、友人の方へと向き合う。帽子のせいで表情はよく見えないけれど。

 「なかったことになんかしたくない、絶対にしない。もしも今から氷河期が来て、雪や氷の中にお前が隠れたって、そのマフラーを目印に、絶対見つけ出してやる」

 寒さで染まった、鼻の頭や傷や絆創膏だらけの手と同じ、自慢の真っ赤なマフラーだ。見失うものか。


 「病気がきっかけで、俺の友達だったお前が変わってしまうかもしれないのが怖かった。なんにもしてやれない自分が悔しかった。だから、いろいろ言い訳して、距離をとって、見ないふりをしてた」

 ついさっきまでだってそうだ。隣に座りは出来ても、きちんとその顔を見ることは出来なかった。面と向かったときに、自分の持つ恐怖が、こいつに伝わってしまうんじゃないかって。

 「でもきっと、違ったんだよな。お前は、変わることを恐れなかった。いや、たとえ怖くても変わろうとすることをやめなかった。慣れないことにも挑んで、跳ね返されれば、今みたいに落ち込んだりもしてるけど」

 傷だらけの両手は、戦いで手にした勲章そのものだろう。

 「かっこいいなって思う」

 だから、俺も、逃げたくはない。負けてなんかいられないのだから。

 ゴミ箱での用を済ませ、もう一度友人の元へと向かう。

 「きっと俺に出来ることは、お前を見ていて、お前を覚えていることなんだ。一年前の、一年あとのお前を見ていて、そしていつか、こんだけ変わったんだぜ、見違えたよって、お前に伝えてやることが、俺の出来ること、やるべきことなんだ」

 「そのマフラーは、どこかにお前が隠れようとしたって俺が見つけ出すための目印。そして、今日のお前がそこにいたんだってことを、一日、一週間、一ヶ月、一年経って、振り返るときのための目印だ。だからさ」

 丸まったきりの友人の目線に合わせてしゃがみこんだ。

 「だからお願いだ。消えてなくなってもいいなんて、言わないでくれ」

 無音の世界。ぼた雪が振り続けていなければ、時間さえ止まったんじゃないかと錯覚しそうなそんな時間。

 だけど、俺もこいつも、だんまりは得意じゃないのだ。よーく知っている。

 しびれを切らしたように、友人が口を開いた。今回は、俺の勝ちだ。


 「こっちからも一つ頼みがある」

 「言ってみ?」

 「手袋も貸してくんない?」

 「やっぱり寒かったんだな?」

 「話が長いんだよ」

 おもむろに顔を上げて、ぎごちなくマフラーを巻きはじめた。積もっていた雪がバラバラと落ちていく。いい具合に積もっていたので、もったいなかったかなと少しだけ考えてしまったのは内緒だ。どうにかこうにか見せないようにしていたが、案の定、鼻だけでなく目元も赤くなっていることに気付いた。気付いていないふりをしてやろう。武士の情けというやつだ。

 「女子を泣かせた罪は高くつくかんな」

 「勉強になります」

 「とりあえず、報復第一弾として、木曜の朝、お前が学校に行く前に寄るから、ちゃんと起きるんだぞ」

 「なにをだ」

 「栄えある友チョコプレゼント、第一号をお見舞いしてやる」

 

 悩ましい。30分前だったら、小躍りをしていたかもしれない。しかし、ブカブカの手袋に包まれて見えなくなった、傷だらけの両手を見た今では、期待をしてしまって良いものか、判断しかねる。

 「胃薬、用意しとくわ」

 「晴れてチョコ童貞喪失なんだぞ、しかも美少女相手からだぞ。もっと喜べ」

 「友チョコなんてノーカンだよノーカン」

 またこうしてしょうもない話をしてしまっている。どんなに寒くても、馬鹿話は花を咲かすものらしい。二人で同時に小さくくしゃみをした。

 「まだ残るんだな?」

 「うん。もう少し、こうしてる。雪、きれいだし」

 意地でも俺に今の顔を見せる気はないらしい。

 「じゃ、またな」

 「あいよ」

 その“また”が、今度はきっとそう遠くないことが嬉しくて、だけどそう思ったことをこいつに知られるのがちょっと恥ずかしかったから、今度こそ俺は、友人に背を向けて歩き出す。威勢よく預けた手前、寒そうな素振りを見せないようにしつつ。ぎゅむぎゅむと間の抜けた音を立てて、今日ここに立っていた証を残すように、新雪を踏み込みながら。


 いつもと同じように、母親の声に叩き起こされた。風邪を引いたときくらいもう少し優しく起こしてほしいし、願わくば起きるまで寝かしておいてほしい。

 友人にマフラーも手袋も預けた結果、見事に風邪を引いてしまった。連休中だから、病院も休みだったため、市販薬でごまかして週明けに学校に行ったものの、余計にひどくして昨日は完璧にグロッキーだった。やせ我慢の結果がこれである。

 寝起きで頭が回らないまま、母親に言われるとおりに玄関にやってきた。はて、なぜに玄関まで行かないといけないのだろう。

 「相変わらず寝起きの顔酷いなお前」

 玄関には女子制服にコートを着込んだ友人が呆れ顔で立っている。思えば、スカート姿の友人をまじまじと目にするのも初めてかもしれない。

 「そんな短いスカートで風邪引かないのか、お兄さん心配ですね」

 「どこかの誰かさんと違って馬鹿なもんでね」

 ほれと拳を突き出してくる。グータッチでもしたいのかと思ったが、よく見ると紙袋を持っていた。受け取って中を覗いてみれば、貸していたマフラーと手袋、そしてラッピングされた小包。まったく、風邪だから無理にいいって言ったのに、律儀なやつだ。

 「ハッピーバレンタイン、なんてね」

 約一年ぶりに目にした表情とともに送られたチョコレートがいかほどのものだったのかについては、本人の名誉のために伏せることとしよう。

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