拝啓ヒロイン様

春義久志

拝啓ヒロイン様

 誰にも気づかれてはならぬ、なんてことはない。療養中でありながら夜更かしをしていることを看護師に咎められるのがせいぜい関の山だろう。

そう思っているはずなのに、誰かの気配がするたびに寝ているふりをしてしまう。皆が寝静まったこんな遅くに眠い目をこすって起きている。当の本人は高いびきをかいて寝ているだろうに。

 夜勤の看護師は特に病室の異変に気づかなかったようだ。次に見回りにやってくるのは当分先のことだろう。懐中電灯の光と足音が少しずつ遠ざかっていくのを感じ私は再び身体をベッドから起こす。

 病室に備え付けてある小さな机の灯りを点ける。いつもだったら少し心許ないけれど、今夜は満月の月明かりも味方だ。ベッドが窓際だったことに感謝をしながら、私は再びペンを握った。小学校ではなぜか使用が禁止だったシャーペンも、卒業して中学校に進めば解禁になる。2つ上の兄さんが使っているものと同じものを買っていた。授業で使うのを楽しみにしていたのに。帰れるのは一体いつになるのだろう。私が教室に顔を出す頃には、紗千も律っちゃんも別の子たちとすっかり仲良くなっているのだろうか。

 そしてなによりも、私は以前と同じように彼女たちと友達でいられるのだろうか。

後ろ向きになりかけた気持ちを吹き飛ばすように自分自身の頬を叩いた。飛ばした弱気と眠気がまた戻ってくる前に、ひと仕事を終えてしまおうとくんの寄越した便箋に目をやる。

 なるほど男子っぽい字だとひと目見て思える、癖の強い字がつらつら連なるアンチョコは、昼間のうちに彼女から直接受け取った。封筒に入っていたのをその場で開封しようとしたら、デリカシーが無いと非難されてしまった。

 理央くんと、それから成人病棟で過ごすあまねさんの顔を思い浮かべた。顔は綺麗でも書く字は必ずしもそうではないことに心のどこかで安堵を覚えつつ、私は理央くんの書いた一字一句を読みながら書き写していく。

 拝啓 ヒロイン様。

 いかがお過ごしでしょうか。


 目を覚ましスリッパを履こうと身を起こしたその瞬間から既に憂鬱だったのは、身体を動かすたび、髪の毛がいつもと違う揺れ方をしていることに気がついたから。鏡を見れば案の定、側頭部の髪が両側とも横に跳ねている。学校で意識を失って倒れ入院する羽目になった日以来で、病室で過ごすようになってからは初めてだ。

 髪の毛の生え方のせいなのか寝相に由来するのかはわからないが、昔から寝癖が出来ると中々治らない質だった。シャワーとシャンプーで多少の時間を掛けてもとに戻すほかなく、こうなった朝にはおのずと学校には遅刻寸前になる。一度だけ、どうしても治す時間がなくそのまま学校に行ったことがある。その時は、寝癖が重力に負けて元に戻るまでの数時間、男子にからかわれっぱなしだった。あの日以来、絶対に治してから学校にいくと決めている。

 今は入院中であるから時間を気にする必要はそこまでない。だからといって朝っぱらから寝癖を治すためだけにシャワーを借りるわけにはいかない。すなわち、自然回復を待つ他なかろう。洗面台から流した水をすくって頭に当てて矯正しようと試みたが大した効果はなかった。

 ため息をつくと同時に、トイレに行こうとしていたことを思い出した。洗面台の前を離れるつもりが、先程締めたはずの蛇口から水が止まらなくなっている。もう一度ハンドルを回してみたけれど、一向に止まる気配はない。早速かぁと、水道水と一緒に声も漏れた。

 別に男子にからかわれたり遅刻することだけで寝癖が嫌いな訳ではない。どういうわけか、昔から寝癖がついたその日にはたいてい決まってろくでもないことが起こる。不幸の内容は様々だった。起きがけに箪笥の角に小指をぶつけたり鳥のフンが空から降ってきたり、下校中に車にはねられたりあるいは学校から救急車で搬送される羽目になったり。

 寝癖が大袈裟であればあるほど、被害の規模が大きくなる傾向があるように思える。小指をぶつけた日は襟足の片側が少しだけ跳ねているくらいだったし、入院をした日の朝は、起きてきた妹に驚かれたりもした。曰く、メドゥーサが現れたかと思ったらしい。

 寝癖がアンテナになって、不幸を呼んでいるのではないかと、いつだったか妹は大真面目に口にしていた。なぜか兄さんに馬鹿受けしてしまい、挙句の果てにはなんなら寝癖を直さずに自分たち兄妹の不幸も集めてくれないだろうかとふざけて拝まれもした。バカバカしいとその場では切って捨てたけれど、ひょっとしたら、あの日の不幸は強烈な寝癖で親兄妹の分まで集めてしまった結果なのかもしれない、なんて。

「変わるんだったら、髪の癖も変わっちゃえばよかったのに」

 なおも流れ続ける水道の修理を一体誰に頼めば良いのか、私はぼんやりと考えた。とりあえずナースセンターに行くことにする。尿意はまた少し強くなっていたけれどまだ大丈夫だろう。男性の身体は女性と違って我慢がしやすいって先生も言っていたし。


「水道ぶっ壊したんだって?」

 “教室”に入って早々、ニヤニヤしながら理央くんが話しかけてくる。

「私のせいじゃないし」

 たぶんと聞こえないくらいの声で付け足しつつ私も席につく。

「もう誰かから聞いたの?」

「朝方に病室でなんか人だかりが出来てたし、なんかあたりが水浸しだったし。俺はてっきり、ミライが力の加減を間違えて捻り潰したのかなと」

「人を怪物扱いしくさって」

 睨みつける私を意に介することなく、あっははと笑っている理央くん。人の名前くらいちゃんと覚えていて欲しい。

 一度だけ、昔の写真を見たことがある。全体的に色素の薄い、美少年と形容して差し支えない姿だった。急性異性化症候群A I S Sの発症前後で、容姿にギャップが生まれる人は少なくないと聞くけれど、少なくとも理央くんにはそれは該当しないだろう。美少年が美少女に変わっただけだから。

 ああ、私もせめて美少年になれたならよかったのに。搬送された病院で目覚め、病名を明かされた時の私は、少しだけ期待していた。パッとしない、少なくとも自身が綺麗だと思う要素の何一つ無い容姿が変わってくれるなら、これは好機だとさえ思っていた。渡された鏡を見て項垂れた私のことを、両親や先生はショックを受けたのだと思っただろう。実際のところは、あんまり変わったようには見えない顔立ちに落胆していただけである。

 やることもないままに理央くんとをおしゃべりをしているうちにセンセーが“教室”に現れた。あいさつもほどほどに、担々と授業を進めていく。入院病棟の院内学級に通う年少患者が多い場合には何人かの教師がつくことになるが、今現在では私と同学年の理央くんしかいないため、センセーが一人で私たちに簡単な授業をしてくれている。聞いた話だとこの病棟で働いている家族がいるらしい。今は黒板に向かっている、少しばかり頼りげのない背中を見ていると縁故の二文字が脳裏にちらつく。質問してみようかと考えたこともあったけど、盛大に凹む姿が容易に想像出来てしまったので、保留にしたきりになっている。

「悪いんだけど昼飯食べたら中庭に来てくれない?」

持ってきたはずの教材が見つからないらしくカバンの中をゴソゴソと探り始めたセンセーを尻目に理央くんが話しかけてくる。

「別に良いけど、わざわざ中庭行かなくてもいいでしょ、大した用じゃないなら」

「大した用だから行こうって言ってんだって。あまり他の人に聞かれたくないし」

 拝むように手を合わせてくる理央くんに面倒事の匂いを感じ取りながら、“教室”で人扱いをされていないセンセーに少しばかり同情をする。

「まだ授業中ですよー」

 内容まで聞き取れていたのかいないのか、どこか寂しそうに注意をしてくるセンセーに向けて、二人で口を揃えてハーイと気のない返事をした。


「笑うなっつったろ」

「笑ってない笑ってない。気管支に入っただけ」

「嘘つけ」

 理央くんに誘われるがままにやってきた病院の中庭、陽光の当たるベンチに腰掛けながら、持参したお茶を飲もうとしたのは失敗だったらしい。

「本当だって。ステキナコトジャナイ」

「棒読みになってんぞ」

 ドウドウと宥める代わりにお茶を差し出す。憮然とした表情のまま受け取って飲み干した理央くんの鼻息も少しは落ち着いたようだ。

 「理央くんだって悪いと思うよ。好きな人ができたから告白しようと思うだなんて急に言い出すんだもの」

「大きな声で言うなっての」

 実際本当に素敵なことだと思っているのに。ましてや、それを相手に伝えようと考えている誰かを、誰がどうして笑えようか。

「んでんで、相手は誰なのさー」

 お前そりゃあとまで口にしたところで、話しかけてきたのが私でないことに気付いたようだ。理央くんがぎこちのない動きで振り返れば、そこには悪戯っぽく微笑むお姉さんがひとり。

「気にしないでいいからさー。続けて続けてー」

 どうするのかと隣の理央くんをちらりと見てみたけれど、泳ぎっぱなしの彼女の目では今の私の視線に気づかないだろう。しょうがない奴だ。

「退院おめでとうございます、周さん」

 なんだ恋バナはもうおしまいなのと少し未練を見せつつ、ありがとうねと彼女は口にした。

「噂が広がるのは早いねー」

 羽須美はすみあまねさん、26歳。理央くんに負けず劣らず、元男性とは思えない。一回り以上年が離れているにも関わらずどこか子供っぽい気がするのは、わざわざ私達に見つかるまいとこそこそ忍び寄ってくるような茶目っ気のせいかもしれない。発症前はひとり暮らしをしていたらしいけれど、入院中は家族だけでなく知り合いもしょっちゅうお見舞いに来ているらしかった。忙しいのかめんどくさがっているのか、家族はなかなかお見舞いに来てくれない私としては、羨ましい限りだ。

「そう言えば、よくお見舞いに来てる若い男の人――シューさんの会社の同僚だっけ、最近見てないよね」

 何かあったのと、相変わらずのタメ口で理央くんは話しかける。挙動不審も漸く収まったようだ。ああ、先輩のことねーと周さん。

「前は週イチでこっちに仕事があったからその度に寄ってくれてたんだけど、最近はあんまりないらしいんだよねー」

 薄情な人だよーと唇を尖らせている姿は、一ヶ月そこそこ前まで男性だったとは信じられないほどに色っぽく、こちらまで無駄にドキドキしてしまう。

「仲がいいんですね」

「少し怒りっぽいのが玉に瑕だけどさー、面倒見のいい人だよー」

「じゃあ会社戻ったら、またその人に世話になるんだ。いいじゃん、かっこよくて頼りになる先輩」

 なぜか嬉しそうに憧れを語る理央くんを尻目に、どうかなーと周さんは少しだけ遠い目をしている。

「退院できてもすぐ出勤できるかどうかは不透明だし、そもそも先輩が会社辞めるかもなんて言ってたからなー」

「あらら」

「ほんとに薄情だな」

「だよねー理央くんもそう思うよねー。もし次来たら言うてやってー」

「次ったって、じきに退院でしょ」

「あーそうだったそうだった」

 てへぺろと舌を出して戯ける姿は、少しだけ寂しそうに見えた。

 頑張れ、可愛い“後輩くんたち”。直った寝癖がまた再発しそうなほどに私たちの頭を撫で回してから周さんは去っていった。その後ろ姿を名残惜しそうに見つめている理央くん。もはや彼女の口から聞き出すまでもない。

「そうかそうか、周さんみたいなのがタイプか」

 そう言えば彼女についての情報は、大体が理央くんの口から聞いたことだった。なるほどなるほど。

「まあ、いいんでないの。綺麗な人だし」

「なんか含みがあるだろ、その言葉」

「別に。ただちょっとややこしいなって」

 美少女が美女に恋をする。絵面はとても美しいけど。

「実質ホモなのでは」

「ホモじゃねーし。仮にホモだとしても、好きの気持ちにキセン?なんてないだろ」

「素敵じゃないの」

「だろ?」

 茶化した私を一蹴してみせる。そう言えばセンセーもそんなことを言っていたっけ。

「でもさ、先輩っていうライバルがいるけど、どうすんの」

「只の先輩だってシューさん言ってたじゃん」

 いいや、あの目は絶対それ以上の仲だろう。

「女の勘でわかるもの」

「元、な」

 返答代わりにチョップをくれてやった。

「ま、いてもいなくても変わんないよ。伝えるってことが大切じゃん?」

「ずいぶんとポジティブでございますね」

「男らしいだろ?」

「元、ね」

 今度はこちらが額にデコピンを食らう番だった

「で、具体的にどうしたい、っていうか私にどうしてほしいの?」

「話が早くて助かる」

 ひとつ気を吐くと、理央くんはポケットから封筒を取り出してみせた。

「これを書いてほしいんだ」

 こうして私は書くはめになってしまった。元男子の代わりに、元女子として、元男子に向けた、ラブレターを。


「性転換自体と同等、あるいはそれ以上に体力の消耗が危険なんです」

 理央くんの書いた字を追いかけているうちに、お医者さんに言われたそんな言葉を想起した。AISS《アイズ》を発症した日、自らの外見にがっかりしたあの日のことだ。

 曰く、ヒトをひとり、一から作り変えるために身体中のエネルギーを使った結果、基礎体力や免疫力の低下だけでなく、小さくないダメージが残ってしまうのだという。私で言えば気管支だし、理央くんの場合は右手の麻痺がそれに当たるということだろう。

 つまり自ずと入院期間の大半は、低下した体力や身体機能の回復のリハビリに当てられることになる。最初こそ新鮮だったリハビリの内容も、三ヶ月近く続けばすっかり飽き飽きだ。様々な分野の専門家が考えた内容だけあって効果はもちろん大きい。それでもふとしたはずみで激しくむせてしまったりすることもあって、そんな時は少しばかり退院後の生活に少しばかりの不安を覚えてしまう。

 気管支が弱った私とは異なるベクトルで、理央くんも大変だろう。握力が回復しきっていないらしく、長いことペンを握るのがまだ難しいらしい。最初のうちこそ、癖があるなりに字は丁寧に書いたことが伺えたが、進むにつれてだんだんと崩れていくのがわかった。

「いっそのこと、左手で書いてみようかと思ったけど、さすがにあんまり変わんなかったわ」

 日中の理央くんが見せた苦笑いを思い出している。

「本当なら、自分で書いて出すのが一番だけど、読めないような字を出すのも恥ずかしくて」

「だから私に書いてくれってこと?」

「俺よりは、文字も綺麗に書けそうだし」

 それにと少しこちらの顔色を伺っている。

「なにさ」

「悩んだ末に、ラブレターを書いたことがあるような顔してるなって思ってたからさ」

 もう一発、少し強めにチョップを叩き込む。なまじ外れていないだけに余計に腹が立った。

きりの良いところまで写し終えたところで一息ついた。幸いにしてここまで書き損じは無い。便箋と封筒は少し余計目に貰ってはいるけれど、周さんの退院まであまり日はない。私のことを信用してくれた理央くんのためにも、私以外の人に書いているところを見せたくはない。今晩のうちに書ききってしまおう。

 初恋だったのかな。書き写すことだけに集中するべきはずが、そんな余計なことを考えてしまう。日中の口振りから察するに、書いたことがないのはきっと確かだ。

 一度だけラブレターを書いたときのことをふと頭に浮かぶ。両親の仕事の都合で転校がちの子。“転校生”の身に纏うオーラが消えてしまえばなんてことのない普通の子。特別仲良くしていたわけでも、好いていたわけでもない。ただ、転校するという話が広まった頃、他の男子と話していた時に見せた――それはどこか日中の周さんにも似た、寂しさと諦めの入り混じった目は記憶に残っている。

 元気にしているのだろうか。もうあんな目をしていなければいいのに。住所も知らないけど、もう一度手紙を送ってみようかな。あまり変わったつもりはないけど、会ったら分かってくれるかな。驚くかな。気持ち悪がるかな。

「羨ましいな」

 こぼれた声に気がついてふと窓の外に目をやる。気がつけば月は雲に隠れ、遠くの空が白ずみはじめていた。


 天井に浮かんだ染みに人の顔を連想しているうちに、いつの間にか日が暮れようとしている。ここまでなんにもしない時間を過ごしたのは、入院してからは初めてかもしれない。

 襲いかかる眠気との戦いの末、手紙を渡したのが昨日の朝。なんとか周さんの退院には間に合うことが出来た。神様仏様ミライ様と調子のいいことを言う理央くんをあしらってから“授業”に臨んで以来どうも調子が悪い。単に睡眠不足だろう、今日はたっぷりと寝させてもらおうと“授業”もリハビリも耐え抜いた。だというのに、夜になったらなったで全く眠くならない。あったかいミルクも225匹まで数えた羊も特に効果はなく、他愛のないことをぐるぐると考えてるうちにまた朝になっていた。頭も気持ちも重くてしょうがない。

 結局、人生初の”ズル休み”を決めこんだのに何をするでもなく、一日中をぼんやりと過ごして今に至る。テレビでも見ていれば自然と眠くなるだろうかとベッドから身体を起こしたところで、理央くんがやって来た。

「具合、よくなったか?」

「あんまり」

 私の曖昧な返事を聞いていたのかいなかったのか、邪魔するとだけ口にして、理央くんは私のベッドの傍に置かれた来客用の椅子に腰掛ける。

「どうしたのさ」

「よくわかんない。疲れてるのに眠れない。全身けだるいし、身体も重い」

「生理か?」

 冗談だとしてもあんまりな出来だ。採点代わりに背中を向けて寝転んで態度を表明する。

「初潮が来る前に罹っちゃったから、どれだけ辛いのかほんとは知らないけどね」

「なんかその、悪い」

 しばし漂った気まずい沈黙を嫌ったのか、声を明るくして理央くんが切り出す。

「手紙さ、書いてくれてありがとな」

 大したことなどしていない。書くべきことは用意してあったのだし。

「下書き書いてるときでも若干しんどかったら、やっぱ清書してもらってよかったよ」

「清書したの、読んでみた?」

「いや、便箋も綺麗に畳んで封筒に入ってたし、なんだかもったいなくて。でもやっぱ女子って字、綺麗だよな。宛名のところだけでも、全然俺と段違い」

「今は、女子は理央くんの方でしょ」

 そうだったわと理央くん。背を向けているから見えないけれど、バツが悪そうに笑っているみたいだ。

「リハビリもそうだけど、もう少し丁寧に書いたほうがいいと思うな」

「あれでも頑張ったほうなんだけど、うん、気をつけるわ」

 いつものような、なんてことのない会話をしているうちに、待望の眠気がやってきて、そこでとうとう気付いてしまう。私はきっと、理央くんと会話を続けたくない。顔を合せたくないのだ。その理由だって、考えるまでもない。だから。

「なんか眠そうだし、帰るぜ。お大事に」

 こんな私を気遣う彼女のために私は起きなくちゃいけない。

「書いてないの、私」

 なのに私は、振り返った理央くんの目を見ることが出来なかった。

「理央くんから貰った手紙、最後まで書ききってないの」


 どうしてこんなことをしてしまったのか。自問自答をせずとも分かっている。

「羨ましかったから」

 理央くんが綺麗な女の子であることが。綺麗な女の子になったのに、身も心もぐちゃぐちゃになったはずなのに、誰かに恋をしていることを自分で認められる、男の子にだって負けないそんな勇気を持っていることが。

「私はあんなにも臆病で惨めだったから」

 あの子にあんな目をしてほしくなかったはずだ。それを止めることが出来たかもしれない行動を、しかしあの時の私は起こせなかった。勇気が足りなかったから?クラスメイトに知られてからかわれるのが怖かったから?どっちにしたって関係ない。出せなかった手紙なんて、伝えられなかった気持ちなんて、最初から存在しなかったものとおんなじだ。

「私の気持ちがちょっとでも分かったらいいって、理央くんの勇気が実らなければいいって、そう思っちゃった。だから私、理央くんが辛い思いをして、心を込めて、一生懸命に書いた手紙、最後まで書かなかった」

 少しくらいはマシに感じれるかもなんて淡い期待は裏切られた。謝らなくちゃいけないことを分かっているのに、顔は前を向けず、言葉は床に沈んでいく。

「ごめんなさい」

 そのたった一言を、相手の顔を目を見て話すことが出来ない今こそがどれだけ惨めなのか、一日前の私が知らなかったことがただただ悔しくて、溢れる涙を止めることが出来なかった。


ていっ。

 軽い衝撃を額に感じて顔をあげた。親指で弾いた中指が目の前で毅然としている。

「これで昨日の分、おあいこな」

ふうと息を吐いて理央くんは立ち上がった。私の長話で疲れてしまったのか、大きく背伸びをしている。

「俺、そんな大それた奴じゃないんだぜ?」

 自責の念で重力崩壊しそうな私と違って、理央くんの声音はちょっと迷惑そうでこそばゆそうな軽さがあった。

未来みくがビビリなら、俺もビビりだよ。だってさ」

「だって?」

「手紙、渡しに行けなかったんだからさ」

 書いてもらったのに俺の方こそごめんと頭を下げた。ようやく目を追うことが出来た私から逃げるように、理央くんは目を背ける。

「やっぱり自分が書いた字で出さなきゃとか、いやいや自分の口で伝えるべきだったからとか、ここに来るまでなんて言い訳しようか悩んでたけどさ。謝られてやっとわかったよ、渡すのが怖かったんだって。そして、それに気づかせてくれたのは、俺に謝ってくれた未来の勇気だよ」

 ありがとうとなぜか礼を言う理央くんだけど、泣き疲れた私は、きちんと名前を呼ばれたのはずいぶん久しぶりな気がするとそんなどうでもいいことをぼんやりと考えている。

「手紙は渡せなかったけど住所は聞いてあるんだ。だから俺、シューさん家に行って、デートに誘って、そこで今度こそ告白する。覚えといてくれよな。そんでもし、俺がそれを出来なかったら、その時はまた未来に叱って欲しいんだ」

 叶う保証なんて無い、聞いてて少し恥ずかしいくらいのバラ色の人生設計を嬉々として語っているその姿がなんだかおかしくて。

「いつになるんだか」

 涙のせいで顔はグズグズ。寝癖に負けないくらいのきっとひどい顔だろう。それでも不思議と気になんてならなかった。

「その頃には、多分お互い退院して、地元に戻ってるでしょ?」

「かまうもんかよ。別に退院で人生が終わるわけじゃないんだぜ?」

 私に謝ったときと違って自信満々の彼女に、私は一つだけ訪ねてみる。

「私も、そんなふうになれるかな」

 いつか誰かにもう一度、想いをしたためた手紙を手渡そうと思える日はやってくるのかなと。何度も言わせるなと理央くんは鼻で笑ってみせた。

「勇気、持ってるってわかったじゃん。俺も未来もさ」

「そう、かな」

「そうだって」

 ならば信じてみることにする。まだまだ不安だけど、理央くんの信頼を、私の勇気を。

 あふうと間の抜けた欠伸が出てきた。そう言えば寝不足で困っていたのだった。なにか可笑しかったのか、ひとの顔を見て笑いだした彼女につられてしまう。

「それじゃ、また明日。一人じゃ“授業”も張り合いがないし、センセーも心配してたし、ちゃんと出てこいよ?」

「行けたら行くかな」

 ばーかと笑いながら病室を出ていった理央くんを今度こそ見送って、私はもう一度身体を横にする。今日ぐらいはきっと、ぐっすりと眠れる気がする。


 誰にも気づかれてはならぬ。

 早く寝すぎてしまったのか、真夜中に目が覚めたのがきっかけだった。窓のカーテンも閉めずに寝落ちしたせいか、手紙を書こうと四苦八苦していた夜に負けないくらいの月明かりが眩しかったのかもしれない。

 どうするべきかと頭を悩ませているうちに、一つ頭に浮かんだことがあった。昨日までの、いや眠りにつく前までの自分なら、決してしなかっただろうその思いつき。実行に移してしまったのは、理央くんのポジティブが伝染したのか、それとも月夜のせいなのか。

 下書きなんて無い。何を書くのかも決まっていない。だというのに、不思議な自信があった。書きながら考えていこう。この夜も人生も、きっとまだまだこれからなのだから。

 拝啓 ヒロイン様。

 朧月の美しい頃合いになりました。

 私は今、あなたのために、私のために、この手紙を書いています。

 

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