ストライプのスーツ
M
会社
特急電車がホームに流れ込んできたとき、おれの身体はぐっと電車に引っ張られそのまま電車の中に吸い込まれてしまいそうになった。昨日も全然眠れなかった。今は朝の6時を少し過ぎたところ。停車した電車に乗り込むと朝からたくさんの人が通勤のために乗車している。いつも見慣れた人たち。おれは定位置となりつつある車両と車両の間へ移動し、背中を壁に預けて出発を待つ。
会社には7時前には到着するようにしている。ビルの地下にあるロッカーで会社の鍵を取り、郵便ポストの中を確認する。朝刊や封書を持って2階にある会社へ向かう。まだ誰も出勤していない会社。おれは朝刊を自分のデスクに置き、封書の宛名を確認しながらそれぞれのデスクの上に置いていく。給湯室にある使いっぱなしのコップを洗い、雑巾を絞って全員のデスクの上を拭いて回る。受話器が汚いと怒鳴られてからは毎日のように電話も綺麗に拭いていくようにした。壁に置いてあるホワイトボードも綺麗にしてから次に朝刊のチェックに入る。うちの会社が取引しているクライアントの記事を一つとして漏らすことなく付箋で印をつけていく。どのクライアントを誰が担当しているのか把握するまでに3ヶ月以上かかり、お前は本当にクズだなと何度叱られたことだろう。朝刊を隅から隅まで見尽くしてから印をつけた記事をコピーしていく。このスクラップ記事を全員に回覧しなくてはならず、漏れがあるとまた怒鳴られる。コピーしたものにわかりやすいようマーカーで線を引き終わる頃に、経理の人が出社してくる。
「おはよう」
「おはようございます」
おれより3つ年上で、最近中途入社してきた経理の女性、曽根崎さんは買ってきたコーヒーを飲みつつデスクの上に置いてある請求書を開封していく。
「そういえば交通費の申請はしてくれた?」
「あ、はい、昨日部長に提出しました」
「ありがと、今日部長にもらっとく」
曽根崎さんはこの会社に来る前は外資系の会社で勤めていたらしく、仕事が滞らないようになんでも事前に期日を設けてこちらに周知してくれる。壁に掛けてある時計を見ると8時半を過ぎようとしていた。そろそろ順番にみんなが出社してくる時間だ。おれは胃が痛くなるのを紛らわすように背筋を伸ばした。
最初に出社してきたのはおれより1年先輩の上田さんだ。
「おはようございます」
「おはようございます」
彼は中途で入社したおれよりも2つ年下のため、おれに対しては敬語を使ってくれる。背が高くすらっとしていてモデルかというくらい顔が整っているので社内でもクライアントからも人気者だ。おれのデスクの隣に座りパソコンを立ち上げながら欠伸をしていると、
「上田くん、交通費の申請と、クライアントへの請求書、やってくれた?」
「あ、忘れてました。すみません、いつまででしたっけ」
「今週中だけど、早めにやってくれると助かるからお願い」
「わかりました。時間あるときにやっておきます」
「うん、早めにね」
曽根崎さんはそう言いながらも上田くんには甘い。彼が締め切りを守らないことなんてザラにあるが、その度に一緒に手伝っていることを知っている。
おれがチェックし終わった朝刊をエントランスの新聞入れに置いて整理しているとドアが開き、矢本先輩が出社してきた。彼はいつものように無表情でおれには目もくれず中に入っていくが、あとで何も言われないようにその後ろ姿に向けて、おはようございます、と挨拶をしておく。いつもネイビーのストライプのスーツを着ている先輩。
「おい誰だよおれのデスクにこんなの置いたのは」
矢本先輩の声がしたので中を覗くと、今朝おれが置いておいた封書を手に持って騒いでいるところだった。
「お前だろ」
冷たく刺すような視線をこちらに向けながら矢本先輩は言い放った。確かに手に持っているものをデスクの上に置いたのは自分だ。
「はい」
「お前馬鹿だろ。何回言えばわかるんだよ。〇〇商事からのやつはおれじゃなくて曽根崎さんのところに置けばいいんだよ。おれがこんなの見たってなんの役にも立たないんだよ。ほんとお前使えねえな」
「すみません」
「クソが。朝から気分悪い」
「すみません」
矢本先輩はそう言ってからすぐそこにいる曽根崎さんをスルーして封書をおれに投げつけてきた。バチン、と音がして床に落ちた封書を拾い、おれはそれを曽根崎さんに渡す。ドスン、と音を立てながら椅子に座る矢本先輩は大きく背もたれにもたれかかりつつ、あー気分悪い、と呟いた。
デスクに戻って朝から行われる部会の準備に取り掛かろうとしていると、次に飯田先輩が出社してきた。彼女は部長に次いで歴が長い先輩だ。
「おはようございます」
「あ、おはよう。今日も暑いわね」
飯田先輩はハンカチで額を押さえつつ大きな鞄を下ろした。飯田先輩の鞄は大きく、いつも何が入っているのかわからないが常に膨らんでいる。
「飯田さん、今日も重そうですね」
隣の矢本先輩が笑いながら話しかける。
「そうなのよ、矢本くん荷物持ちしてくれるかしら」
「いやいや、自分忙しいんで。暇なやつなら荷物持ちしてくれるんじゃないですか」
矢本先輩はおれの方を見ながら言った。
「あいつとか、全然数字取れてないんで暇な証拠ですよ」
「そんなこと言わないの。今頑張ってるんだから」
「頑張ってれば数字取ってこなくていいんなら自分も取ってこないですよ。そんなこと言って甘やかしちゃダメですよ」
「甘やかしてるんじゃないわよ」
飯田先輩はデスクに座ってパソコンを開き、業務に取り掛かっていた。相手にしてもらえないとわかった矢本先輩は立ち上がってストレッチを始める。ストライプ柄のスーツがよく伸びる。
「今日も数字取ってきますか。誰かさんが取ってこないからおれがたくさん取ってこないといけないんだよな」
大きめな声でそうぼやくが誰からの賛同も得られないとわかると、なあ上田、と上田さんに話を振った。いきなり振られた上田さんは愛想よく笑いながら、そうですね、と返す。
「上田も頑張れよ、お前いつまでに予算達成するんだよ。とっとと受注して予算達成しちゃえよ」
「そんな簡単に言わないでくださいよ。矢本さんは営業上手いんで簡単かもしれませんけど、そんなにすぐに達成できないっすよ」
「わからないことがあればいつでもおれに聞けよ。数字取るなんて簡単なんだからよ」
「はい、ありがとうございます」
上手いな、と上田さんを見て思う。ちゃんと相手を褒めることができ、上手に取り入ることもできている。
矢本先輩の機嫌がよくなり安心していると最後に部長が出社してきた。うちの支社はこの6人で構成されている。
「おーっす」
「おはようございます」
「おはようございます」
部長が入ってくると皆口々に挨拶をした。時計は9時5分前を指している。
「みんな揃ってるな」
デスクに腰を下ろしながら部長が皆を見た。
「おい高野、もう部会の準備はできてるか」
部長がこちらに視線を寄越しながら聞いてきた。
「あ、はい、あとは資料を印刷するだけです」
「そういうのは準備出来てないって言うんだよ。資料くらいコピーしとけよ」
部長との会話に矢本先輩が入ってきた。
「じゃあコピーしたらまた連絡してくれ。出来次第部会を始めるから」
「はい」
おれは共有フォルダから全員の予算表を出して6部コピーする。複合機から印刷されている間に給湯室に行って部会で飲むためのコーヒーを淹れる。
毎週水曜日の朝に、うちの会社では部会がある。営業数字を確認し、予算に対してどのように動いていくのか把握するのだ。
会議室にコーヒーを並べ、部会で使う資料を並べる。
「準備出来ました」
部長にそう告げると、
「よし、部会するぞ。皆会議室に」
会議室に集まり資料を見つつ一人一人に対してのチェックが入る。まずは入社してまだ半年のおれからだ。
「高野、最近あまり受注した報告がないけどどうした。△△商事さんからもらえそうなのか」
△△商事、というのはおれが入社してから初めて任されたクライアントで、そろそろ予算が確定する。
「はい、先週提案に伺ったのですが、担当者の方からはこの見積もりで大丈夫だと言われています」
「いつ契約書もらえそうだ」
「今日この後に訪問予定なので、その時にくださいと言ってあります」
「そうか。そのほかにはどこかめぼしい会社あるのか」
「あ、はい。△△商事さんへ伺った後、◇◇電子さんにアポが取れまして、電話で簡単に企画の説明をしたところ詳しく話を聞きたいとのことでした」
「◇◇電子って、昔矢本が担当してたところだったよな」
突然の矢本、という言葉にビクッとしつつ矢本先輩の反応を待つ。
「そうですね。高野が入社する前に自分が担当していました。けどとっくに断られてますよ。うまいこと言ってるだけです。無駄です」
資料に視線を落としたまま矢本先輩は言った。
「担当者が変わったとかあるか」
「いえ、ありえません」
「そうか。じゃああまり期待できないかもな」
知らないうちに矢本先輩が昔担当していた会社へのアポを取っていたことへの罪悪感が押し寄せてくる。
「というか、どうして高野が勝手にアポ取ってるんですか」
おれを通り越して部長に矢本先輩が告げた。
「おかしいでしょ、これ」
「そうだな、どうしてここにアポ取ったんだ」
部長がこちらを見ながら質問してきた。
「あ、すみません、あの、訪問履歴のリストを確認していた際に、もうだいぶ伺っていないみたいだったので、電話してしまいました」
「ここがおれのクライアントだった知らなかったのかよ」
「すみません」
「は、お前まだ全員のクライアントを把握できてないのかよ。どんだけクズなんだ」
「すみません」
「まあ、アポを取ってしまったことは仕方ない。矢本も、だいぶ行ってなかったんだろ」
「そうですけど、こいつまだ全員のクライアントを覚えてないってやばくないですか」
「そう言うな」
「あー気分悪い」
矢本先輩は視線を宙に浮かせて資料を机に放った。
「じゃあ高野、矢本から◇◇電子のこと聞いてから訪問するように」
「はい」
胃がキュッと締め付けられる気がした。部長は次に上田さんの予算について言及している。おれは他の人の状況を把握することができず、ただただ資料に視線を落としたままじっとするしかなかった。
部会が終わり、皆が会議室を出てからおれは机に残ったコップを洗いに給湯室へ向かった。今日、◇◇電子に行くまでに矢本先輩から今までどのようなことを提案していたのか聞かなければならないという使命がおれを憂鬱にさせる。
デスクに戻ると曽根崎さんが矢本先輩を話していた。
「これなんですけど、私のところではなくてまず矢本さんが処理して部長に届けてください。私のところにくるのはその後です」
見ると今朝おれに投げつけていた封書を矢本先輩に渡しているところだった。
「前にも言いましたけど、こういうのを全て私に任せればいいという考えはやめてください。私は皆が処理したものを最終チェックするのが仕事です」
「え、そうなんすか、てっきり曽根崎さんにお願いすればいいと思ってましたよ」
「違います。私は私の判子しか押せません」
「えー、自分のやつ勝手に使っていいですよ」
「使いません。今日中に部長に提出しておいてください」
「はーい」
おれは何も見ていない素振りで自分のデスクに座る。胃が痛い。身体が重く感じる。時間を確認すると後1時間で△△商事に向かわなくてはならない時間になっていた。その後会社に戻ってくる余裕はないため、今のうちに矢本先輩に話を聞かなくてはならない。
おれは意を決して立ち上がり矢本先輩のところへ向かった。
「あの、矢本先輩、少しいいですか」
矢本先輩はこちらを向かずパソコンに視線を送ったまま、なんだよ、と返してきた。
「◇◇電子のことなんですが」
「だからなんだよ」
「今までどのような提案を行ってきたのか教えていただけますでしょうか」
「そんなの覚えてねえよ」
ストライプ柄のスラックスが見える。青いストライプ。
「最後に訪問したのはいつでしょう」
「覚えてない」
「どうして今までうちと取引がなかったのか」
「知らない」
何を質問すればいいのかわからなくて途方に暮れる。椅子の背もたれに掛けているジャケットのストライプが揺れていた。
「わかりました」
仕方なくデスクに戻ろうとした時、
「は、わかりましたって何が?」
こちらを睨みながら矢本先輩が言い放った。
「何にもわかってないだろ」
「…はい」
「お前さ、ちょっとは頭使って質問とかできないの。なんだよ今の」
「…すみません」
「そんな感じでいるから数字取れないんだろ。お前ほんと使えねえな」
「…すみません」
「あー気分悪い。お前と話してると気分悪くなる」
その場で立ち尽くすしかないおれはもう何をどう喋れば良いのかわからず途方に暮れた。
「くそ」
小さくおれにだけ聞こえるようそう呟いた矢本先輩は立ち上がり、
「じゃあおれ営業行ってきます」
ホワイトボードに帰社時間を書き込むと早足で会社を出て行った。残されたおれはそのまま自分のデスクに戻る。消えてしまいたいと思った。
時間までにメールのチェックや企画書の印刷を終わらせ、おれは△△商事へ向かうため会社を出た。
駅までの道すがら、たくさんのサラリーマンとすれ違う。皆汗をかき、重そうな荷物を抱えてせわしなく彷徨っている。
ネイビー色のスーツの、ストライプ柄を着ている人を見る度に身体が強張って動かなくなったのはいつからだろう。そのしまもようはまるで動物園の檻の鉄格子のようにおれを囲い身動きをとれなくさせる。縦に並んだ線が目の前にあるだけで息が苦しくなり目眩がする。
今の会社に中途入社してちょうど半年がたとうとしている。入社した当初から、矢本先輩は少し違っていた。
まず最初に言われたのは、お前は新卒じゃないから容赦しない、という言葉だった。新卒じゃないのは自分でもわかっているが、新卒で入社した会社を一年足らずで辞めてしまいここへ入社した、まだ社会人になってから幾許も経っていない第二新卒枠で入社した自分に対してそう口走るのはあの人だけだった。
宣言通り、矢本先輩はおれを入社初日から怒鳴りつけた。原因はおれがタバコを吸いに行ったことにあった。入社したての新人が仕事せずタバコ吸うなんて一体何考えてるんだ。そう言いながら喫煙所でおれを睨みつける矢本先輩の手には火のついたタバコが挟まれていて、今にもそのままおれの顔に投げつけてきそうな勢いだった。ビルの喫煙所にいた他の会社の人たちが驚いたようにこちらを向き、関わりを持たないよう一瞬で視線を逸らしたのを覚えている。もしおれがあの人たちの立場だったらきっと同じような反応をしていただろう。おれはまだ火をつけたばかりのタバコをそっと灰皿に落とし、すみません、と言いながら喫煙所を出て行った。
しかし、本当の地獄はその後だった。会社に戻ってきた矢本先輩はドアを開けるやいなや、おれのところに来て怒鳴り散らした。お前初日からたるんでるんだよ、そんなんだから新卒で入社した会社もすぐ辞めたんだろ、仕事できないくせにサボることだけは一人前だな、お前みたいなやつを世間ではゆとりって呼ぶんだよ。スーツのストライプが目の前で揺れ続けていた。その揺れは気付くと約一時間にも及び続けられ、最後は営業から帰ってきた部長がその光景を目にし、何してるんだ、と割って入ってきてくれるまで止むことはなかった。もし部長が来なかったらあのまま気がすむまで怒鳴り続けられていたことだろう。
「おい矢本、お前少し言い過ぎだぞ」
「そんなことありません。こいつが仕事もせずサボっていたのが原因です」
「そうなのか高野」
部長の視線がおれに降り注いだ。
「…はい、仕事中にタバコを吸いに行ってしまいました」
「タバコ」
「そうですよ、こいつまだ入社初日だっていうのにタバコ吸ってサボってるんですよ」
「おいおい、タバコくらいいいじゃないか。お前も吸うだろう」
「自分は仕事がひと段落ついてから切り替えるために吸いに行くんです。けどこいつの場合は仕事もせずタバコを吸うんです」
「もういいだろう。高野、お前も気をつけろよ」
何に気をつければ良いのかわからぬまま、はい、と返事をすると部長は自分のデスクへ向かった。
それからも、何かあるたびに矢本先輩はおれに難癖をつけてきた。
「出社時間が遅い」
「電話対応が下手」
「クライアントの担当者をいつまでも覚えない」
「新聞記事のスクラップし忘れがある」
「皆のデスク掃除をしていない」
「帰るのが早い」
「先輩に仕事内容を質問しない」
なんどもなんども指摘され、挙げ句の果てに、
「ペットボトルの飲み方が気持ち悪い」
と今まで誰にも言われたことのない、そんなことまで見られると思ってもいなかったことまで言及された。
「こいつの飲み方、変ですよね。だってほら、口を開けて飲むから絶対口に入ったものがまたペットボトルの中に戻ってる」
社内にいる全員に、一人一人にそう言って回っている姿を目にした時は何をどう感じ取ればいいのかわからなくなった。言われた皆はそれぞれ、そうかな、や、へえ、など気にも留めない返事ばかりで更に気分を悪くした矢本先輩は次第にひたすらおれの仕草を指摘し、嘲笑うことに執着するようになった。
常に青や濃紺などのネイビー色のスーツで柄はストライプと決めているのか、矢本先輩はいつも同じようなスーツを着ている。おれは出社途中でも営業途中でもいついかなる時でも、矢本先輩を連想させるようなスーツを見かけると咄嗟に隠れるようになった。防衛本能が働くようになったのだろうか。
そして最近では食欲はあるのに食べると吐くようになってしまった。いや、正確には一旦食べ始めると止まらないのだ。いつどんな時でも食欲が湧いてくる。胃が膨れ上がって動けなくなるまで止められない。満足するまで食らい続け、胃がもう受け付けなくなるとすぐトイレに向かい、口の中に指を突っ込んで今食べたものを全て吐き出す。全て吐き出すと気持ち悪さから解放された安心感と、また吐いてしまったという罪悪感が交差して放心状態になる。ここ数ヶ月は常にそんな感じ。一体どうしてしまったのだろう。
もう一つの悩みはここのところ上手く眠れなくなってしまった。夜目を閉じると毎回瞼の裏にはストライプ柄が映し出されるのだ。眠ろうとするとゆらゆらとしたしまもようがおれの視界を侵食してくる。そのせいで常に寝不足状態。会議の時ですら気を緩めると意識が飛んでしまいそうになる。
毎日仕事を終えて会社を出るのが夜の23時過ぎ。家に着きベッドに入れるのが1時を回った時。そして朝の5時半には目を覚まさなければならない生活。
駅のホームで電車を待っていると後ろから肩を叩かれた。突然のことに驚いて振り返ると、
「ちょっと、驚きすぎよ」
飯田先輩が大きな荷物を肩から下げてこちらを見ていた。手にはアイスコーヒーが握られている。
「あ、すみません。突然のことだったのでつい」
「そんなに驚くとは思わなかったから私までびっくりしちゃったわよ」
「飯田先輩もこっち方面なんですか」
「ううん、私は反対側。高野くんの姿が見えたから声掛けただけよ」
飯田先輩の長い黒髪が風で揺れている。電車が通るたびに前へ後ろへ右へ左へ。まるで何か意志を持って動いているかのように動き回る彼女の髪はおれの肩にまで届きそうだ。
「最近どう、営業も頑張ってるみたいだけど」
「ありがとうございます」
「仕事で悩みはない?」
何か言いたそうな雰囲気を作り出しながら飯田先輩はおれを見た。メガネの奥で小さな瞳がおれを捉えている。
「大丈夫です。早く数字が取れるように頑張ります」
「数字は後からついてくるものだから気にしすぎないようにね。それよりも今はお客さんとの関係性作りとか、うちの会社の実績なんかを学んだ方がいいわよ」
「お客さんとの関係性ですか」
「うん、どんな仕事も一人じゃできないし、ましてや営業なんてお客さんから気に入られてなんぼの世界だから、最初は誠心誠意な姿勢を見せることよ」
「わかりました」
「まあ、高野くんは人受け良さそうだから心配してないけれど」
んふふ、と含み笑いをするのが飯田先輩の癖だ。んふふ。
アナウンスが鳴り響き、飯田先輩が乗る予定の電車が滑り込んできた。じゃあ私こっちだから、また会社でね、と言い、手と髪をひらひらさせながら踵を返して大きな身体を揺らし去っていく彼女の後ろ姿を見送った。
どかっと大きな音がし、おれの待っているホームに特急列車が通過していった。後ろから何かに引っ張られるような感覚がおれを取り巻く。風が強くおれの身体をどこかに運び込もうとする。目の中にゴミが入って咄嗟に閉じると瞼の裏でしましまもようが揺れていた。
ストライプのスーツ M @M--
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