シング・ア・ソング・コロシヤ
トモ・ヒー
第1話 コロシヤ
時計は二十一時を指していた。
もう一度、柱の影から左前方のエレベータホールを見やる。獲物は、まだ来ない。
この場所に隠れてから、二時間になる。疲労は感じていないが、いくらか喉の渇きを感じる。
私は胸ポケットに手を入れると、水の入ったカプセルを取り出した。口に入れ、噛み砕く。大して量は入っていないが、喉を湿らすだけでよいのだ。それには、これで十分だった。
獲物の名は、
金田自身もインストラクターの経験があり、動画サイトに公開している「カネやんの金トレ」という動画は、筋トレの愛好家から初心者まで人気らしい。
もともとはこの辺りで開催されていた非合法の格闘技大会の選手であり、それなりに活躍をしていたことから暴力団組織のバックを得て、夜の繁華街で暴れまわっていたようだ。
しかし、三十をいくらか過ぎた辺りから勝てなくなり、引退。それまでに稼いだ金で起業、成功したというわけだ。
起業家となった今ではさほど人の怨みは買っていないようだが、「現役」の時には相当なことをしていたのか、その時の怨みは消えていない。
だからこそ、今回の仕事がある。
金田の会社はこの高井不動産ビルに本社を構えており、帰りはいつも二人のボディガードと共に地下駐車場から車に乗って帰宅する。
金田ほど強い男がボディガードをつけるのは不自然な気もするが、銃に対する弾除けくらいに考えているのかもしれない。
この国では銃など簡単に手に入れられるものではないが、あるところにはある。備えるに越したことはないのだろう。
エレベータがまた、上層階から降りてくる。そろそろか。まだ、金田の車は駐車場にある。必ず来るはずだ。
エレベータの扉が開く。私は、視線を向けた。降りてきたのは、スーツを着た三人の男。両端の男は百九十センチを超えるであろう巨躯。ボディガードだろう。
そして、真ん中。ボディガードにも劣らない体格。短く刈り込まれた金色の髪。よく日焼けした肌。間違いない。金田だ。
こちらに歩いてくる。
私は左上にある監視カメラを見た。
金田の車より、いくらか手前を映している。赤いランプが、点滅している。
まだ、遠い。十メートル。私は、左腰の得物に手をやる。大丈夫。いつも通りだ。この時のために、手入れも完璧だ。
五メートル。
「今だ」
私は、短く呟いた。左上。監視カメラ。赤いランプ。消えた。
駆け出した。そして、小ぶりのナイフを抜く。
最初に反応したのは、向かって左側のボディガード。金田をかばうように、重心をかけた。
それは、私の狙い通りだった。私は左方向にステップを切り、跳躍した。右の首筋。がら空きだった。軽く、ナイフを振る。次。
もうひとりのボディガードが私の方を振り向いた時、やはり跳躍して、右の首筋を切り裂いた。
ゆっくりと私が金田の方に向き直ると、二人のボディガードは、首から血を吹き出しながら倒れていた。
「おまえは」
震えながら、金田が呟く。
「俺を、殺そうと言うのか」
それは怯えによるものではなく、怒りによるもののようだった。
日に焼けた金田の顔が紅潮することで、どす黒く見えた。
金田が雄たけびをあげた。私は一度ナイフを振り、付着した血を軽く払った。そして、無言でナイフを構える。カメラの異常に気づかれるまで、長くみても五分。決着を急ぐ。
金田はジャケットを脱ぎ捨てると、私に殴りかかってきた。右の拳。速い。
身体をひねってかわした。かわすのは容易ではない。そして、まともに受けてはならないものだった。
右、左と金田が繰り返し続ける。私は、いくらか距離を取りながらかわし続ける。
いいパンチを出してくる。だが、この距離では届かない。それは、金田も気づいただろう。そして、金田の武器は拳だけではないはずだ。
金田が不意に大きく右手を振りかぶった。ここだ。金田が身体ごと投げ出すように繰り出した右の拳を、私はぎりぎりで左にかわした。距離が詰められた。
金田が、笑ったような気がした。
体勢を崩すように見えた金田が、そのまま一回転するように、蹴りを放つ。
これが、金田の必勝の一撃か。私は金田の回転に合わせて、右側から背に回り込んだ。
金田の蹴りが空を切った。
鋭い蹴りだ。察知できなければ、これでやられていただろう。
「なにっ」
金田の狼狽が伝わる。
「残念」
右の首筋。守るものは、なにもない。
「だったな」
ナイフを振る。手応えはなかった。それはいつものことだが、命を切り取ったのだという感覚はあった。
眼を閉じる。残心。軽く血を振り払うと、ナイフを鞘に納めた。
そのまま金田に背を向けて立ち去る。しばらくは金田の首筋から血が吹き出す音が聞こえていたが、やがてそれも聞こえなくなった。
地上へ出ると、見慣れた車が路上に停まっていた。
クリームイエローのフィアット500。中古のおんぼろをレストアした、私の愛車だ。
屋根に肘を置いて煙草を吸っていた男が、私に気づいた。
「首尾は、J?」
「いい感じだ、J」
私と同じ、Jの名を持つ相棒。高井不動産ビルの地下駐車場で監視カメラを破壊したのは、この男の仕事だった。ビルのネットワークに侵入し、警備システムをクラックするようなことはできないと言うが、破壊工作は手馴れたものだった。私も、Jの仕事には助けられている。
逆立つ黒髪に、銀縁のサングラス。革ジャンにジーンズの上下といったいでたちはチンピラのようだが、そう悪い男ではない。
Jは煙草を咥えたまま車に乗り込むと、エンジンをかけた。私もジャケットを脱ぐと、車に乗り込んだ。
車が走り出す。古い車だが、状態は悪くない。エンジンもいいものを使っており、百五十キロくらいは軽く出せるのだ。
耳につけていたヘッドセットを外す。仕事をする上で生命線といっていいものだが、最近は質のいいものが安く買える。
「血は、浴びてないようだな」
「ああ」
「もっとも、その格好じゃわからんがな」
漆黒のジャケット、漆黒のカッター、漆黒のズボン、漆黒のストレートチップ。それが私の仕事着だ。返り血を浴びても目立たないための、簡単な心がけだった。最近では返り血を浴びるようなことはほとんどないが、それでも私はこの格好を気に入っていた。
車に置いたままの煙草を一本取り出すと、火を点けた。紫煙が開け放した窓から流れ出ていく。仕事終わりの一服は、やはり格別だった。
「次の仕事は決まってたか?」
「ああ」
交差点を左へ曲がると、Jが咥えていた煙草を灰皿に置いた。いつもは吸殻が山と積もっているが、きれいに片付けられていた。
「次の現場は、福岡だ」
「福岡、か」
決して好きな街ではないが、馴染みのある場所だった。
「地元だろ?」
「地元じゃない。九州生まれだがな」
「こだわるよな、そこに。せっかくの凱旋だろ?」
「凱旋?ああ、俺の福岡行きに合わせたのか」
「言われなくてもわかってるだろうが、本業の方もおろそかにするなよ」
「コロシの方が本業だよ。俺はコロシヤさ」
Jが声をあげて笑った。冗談を言ったつもりはないが、いつまでも理解できないものらしい。
「こいつは、俺が持っていく。おまえは本業の方の仲間と、飛行機で来ればいいさ」
地方に行くならレンタカーを使えばいいと思うのだが、もしもカーチェイスを繰り広げることになった場合、乗りなれた車の方がいいのだと、Jは譲らない。幸いにしてそのような事態に陥ったことは一度もないが、私の車を気に入ってくれているのだから、悪い気はしない。
「おいぼれてはいないが、年寄りなんだ。無理はさせるなよ」
「わかってるさ、大切に送り届けるよ。このキャプテン・ハードロック号をな」
「間違えるな、キャプテン・フリーダム号だ」
「そうだったな」
Jが低い声で笑った。幾度となく繰り返したやり取りだった。
「夕めしはどうする?俺は、なんとなくイタリアンが食いたいが」
「悪くないな。多摩の方に深夜までやってる店があるが、ニョッキがうまい。そこにしよう」
Jが頷いた。
高速道路に入った。フィアットが唸り声をあげ、先行車を追い抜いていく。
「やはり、おいぼれてはいないな」
Jは私の呟きに応える代わりに、アクセルをひとつ大きく踏み込んだ。
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