記憶遮断装置
「うーん……分からん!」
私はデスクの前で頭を抱えていた。視線の先には、物語を紡ぐ文字が印刷された紙の束がある。
つまりは小説だ。誰でもない、私が執筆したものである。
私は作家を生業としていた。まあ、細々と食っていける程度に過ぎないが。
執筆作業自体はデジタルな環境で行っているが、初稿を書き終えるといつもこうしてアナログな紙に印刷して、赤ペンを手に推敲するようにしていた。
けれど、自作を読んでいて毎度思うことがある。
これは、本当に面白いのか……? 嗚呼、この作品に関する記憶を一時的に失くして読むことが出来れば良いのに……。
そこでふと思いついたのは、そういう機能を持った装置を作れないか、ということだった。
最近、記憶分野のテクノロジーが目覚ましい発達を遂げているらしい。もしかすれば、私の要望に沿った物も作れるかもしれない。
そこで私は取材がてら、著名な研究施設を訪れることにした。
「なるほど……特定の作品に関する記憶を一時的に思い出せなくなるシステム、ですか。恐らくですが、可能ですよ」
施設案内を担当してくれた研究者に提案してみたところ、彼はあっさりと頷いた。
記憶とは、脳内のニューロン群が発生させる電気信号の動きらしい。電気信号がどのような経路を描いたかによって、それに対応する記憶が想起されるのだとか。
その為、特定の作品に関する記憶──電気信号の動きを特定し、それを阻害することが出来れば思い出せなくなる、ということのようだ。
後日、私はその研究者から連絡を受けて再び施設を訪れた。どうやら提案した装置を早速試作してくれたらしい。
「こちらを被ってください」
私は渡されたヘルメットのような形の装置を装着した。
まずは記憶を遮断したい作品を実際に見たり読んだりすることで、その際に脳内で発せられる電気信号の動きを読み取るそうだ。
私は持ってきていた自作の草稿を読んでいく。既に内容を知っているので、やはり新鮮な気持ちで読むことは出来ない。
すると、数分で軽快な音が鳴った。どうやら読み取りが済んだという合図らしい。その作品の記憶に関する電気信号の動きの共通したポイント、根元の部分が分かれば良いとのことだ。
「それでは、記憶の遮断をスタートします」
研究者がそう言って何やら操作を行った。しかし、これといって体感覚に変化はなかい。私は何の気なしに手元の紙へと目を遣った。
それは、初めて読む物語だった。私はこれが自分の書いた作品だと知っているにも関わらず、その内容がまったく思い出せないのだ。
私がその旨を伝えると、研究者は装置を外すように言った。
外してから再び草稿を読んでみたところ、今度はいとも容易く内容を思い出すことが出来た。
研究者の説明によると、装置が読み取った電気信号の動きを外部から阻害することで、特定の記憶を意図的に思い出せない状態を作り出す、ということらしい。装置が発する微弱な電流によって脳内に干渉しているようだ。
それからも私は何度か施設に呼び出され、微調整の為に実験を重ねた後、遂に記憶遮断装置は完成したのだった。
しばらくして、記憶遮断装置は世間に向けて発表されることになった。
私の提案で開発されたとはいえ、一人で独占するわけにもいかない。製品版となった物を一つ無料で貰うことが出来たのでありがたいと思うことにする。
それほど複雑な仕組みではないらしく、少々高額ではあっても、決して庶民の手に届かないというほどではなかった。
記憶遮断の効果があるのは装置を着けているだけということもあり、一般人にはさして意味のないもののように思うが、クリエイターならば迷わず手に取るだろう。
私はその程度にしか考えていなかった。
数年後、記憶遮断装置は世の中にすっかり広まっていた。
クリエイターの需要が大きいだろう、と考えていた私の予想は甘く、今では一般人に普及している。
その原因となったのは、一度触れた作品でも初めての時と同じく、素晴らしい感動や衝撃を味わえるという点にあった。
そうして世の中に起きた変化とは何か。それは、新たな作品の需要が極端に落ちてしまったことだった。
誰もが過去に自分が素晴らしいと感じた作品を、記憶遮断装置によって繰り返し楽しむようになってしまったのだ。
結果として、今やクリエイターが新作を創り出しても得られる報酬はごく僅かだ。素晴らしい新作の需要は依然としてあるものの、それはそう簡単に生まれるものではない。
記憶遮断装置を用いることで自作のクオリティが上がったのは間違いないが、それ以上に変わってしまった環境に適応できる程ではなかった。
結局、私は金にならなくても、他の仕事をしながらでも、作品を作り続けられるような狂人ではなかった。どこにでもありふれた凡人だったのだ、と突きつけられることになった。
記憶遮断装置の提案をしたことで私は、クリエイターにとってのパンドラの箱を開いてしまったのかもしれない。
最後に残る希望には、私はなれなかった。
それゆえ、筆を折ったのだ。もう、私は作家ではない。
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