歌声

 僕は生まれて初めて恋をした。

 放課後の学校の屋上で歌う彼女に。

 胸の内からマグマのように溢れ出した衝動は抑えられず、一曲歌い終えた段階で声を掛けた。


「凄い……凄いよ。誰かの歌にこんなに感動したのは初めてだ……」

「わっ、聞いてたの、恥ずかしいなぁ……でも、そんな風に言って貰えるのは嬉しい」


 彼女はそう言ってはにかんで見せた。

 互いに自己紹介すると、クラスは違えど同じ学年だった。

 他にも聞かせて欲しい、と僕は頼み込んだ。

 恥ずかしそうだったが、彼女は了承して歌ってくれた。

 初めは見られているからか緊張した様子で、途中からはノリノリだった。

 そして、そのどれもが僕の心を震わせた。欠けていた何かが埋まっていくようだった。


 それから、僕と彼女は親しくなった。

 どうやら彼女は学校では浮いているらしいことを知った。人に合わせることが出来ない、自分勝手なところが嫌われているらしい。けれど、そんなことは僕には関係なかった。

 僕達は良く一緒にカラオケへ行った。けれど、歌うのは彼女だけだ。とにかく歌うのが好きな彼女と、その歌を聞きたい僕とで、両者の欲求は一致していた。

 屋上でアカペラで聞くのも良いが、やはり旋律が加わると歌声にも変化が生じて、それもまた良いと思えた。


 学校や休日で行動を共にすることが増えていき、ある日、僕は彼女に好意を告げられた。


「ワガママな私をこんなにも受け入れてくれたのは君が初めてなんだ。私は君のことが好き。私と付き合ってくれる?」

「うん、いいよ。付き合おう」


 僕だって彼女のことが好きなのだから、了承するのは自然なことだと思えた。

 けれど、その時には僕達を繋ぐ歯車は少しずつ狂い始めていた。


 付き合うようになったからと言って、それほど大きく何かが変化するようなことはなかった。

 強いて挙げるなら、時おりキスをせがまれるようになったくらいだ。それはいつも彼女の方からだった。

 僕の方から求めることは、なかった。


 やがて、僕達は身体を重ね合わせた。彼女は嬉しそうだった。

 だけど、それも彼女が求めた結果に過ぎない。僕が彼女を欲したわけではない。

 それどころか、どんどん彼女への興味が薄れていっている自分に気がついた。

 僕はその原因について考える。決して好ましいことだとは思っていなかった。それくらいの良識は持っていた。


 しかし、僕は遂にその原因を理解してしまう。

 いつの間にか彼女の歌が心を震わさなくなっていた。引っ掛からず通り過ぎてしまうようだった。

 それは何故か。

 彼女の歌は以前よりも上手くなっている。けれど、それは僕の中で致命的なズレと化していた。


 そうして、ようやく気づく。

 僕は彼女のことを好きでも何でもなかった。勘違いしていた。

 僕が好きなのは、彼女の歌声だけだった。それも今のように上手くなる前の。拙い部分がむしろ僕の心にはピタリと嵌まっていたのだ。

 それを知ってしまえば、もう彼女とはいられなかった。


 別れを告げるのは良心が痛んだ。彼女を傷つけたいわけじゃない。

 だけど、これ以上は失われてしまう。僕の恋した彼女の歌声が。とても良く似た、けれど決して異なる彼女の歌声に汚されてしまう。

 彼女の歌声がズレていると自覚出来るのは、まだ残されているからだ。僕の中に。今なら間に合うと思えた。


 そうして、独りになった僕の中には彼女の歌声が響き続けている。

 だから、僕は幸せだ。

 いつまでも。いつまでも。

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