狂気

 変な夢を見た。でも、良く思い出せない。

 何か黒い影のようなものが私に覆い被さっていた気がする。

 夢占い的にはどんな意味があるのだろうか。

 まあ、いいや。起きよう。


 私はすくっと身体を起こしてベッドから出ると、窓のカーテンを開いて外を見た。

 良い天気だ。晴れ渡る青空に、小鳥がチュンチュンと鳴いている。その清々しさに心が透き通っていくようだ。

 身体の調子も良い。いつもより伸び伸びと動いているように思える。今なら何だって出来てしまいそう。

 私は自室を出て階段を駆け下りていくと、台所に飛び込んだ。そこにはお母さんがいて弁当の準備をしていた。


「朝ごはんはもうテーブルに並べているわ。早く食べてしまいなさい」

「うんっ、でもその前に」


 私はお母さんの首元に抱きついた。身体が強張ったのを感じる。突然だったのでびっくりしたのだろう。


「もう、どうしたの、急に」

「何となく~」


 そんな風にしていると、お父さんも台所にやって来た。


「どうかしたのか」

「お父さんも、えいっ」


 私は同じように首元に抱きつこうとした。しかし、かわされてしまう。お父さんは咄嗟に居間の方へと後ずさっていた。


「むー、何でかわすのー」

「もう小さな子供じゃないんだから、危ないぞ」

「酷い! そんなお父さんには、こうだっ」


 私は腰を落としてタックルすると、お父さんを押し倒した。下は柔らかい絨毯なので、怪我をする心配はない。そのまま馬乗りになるようにして抱きついた。


「こら、冗談はやめなさい」

「えへへ、ごめんなさい~」


 私はお父さんを解放すると、お母さんが用意してくれていた朝食を食べながら、テレビに目を向ける。お父さんが見ていたようで、ニュースが流れていた。


『連日、全国各地で凄惨な事件が発生しております。既に被疑者はそれぞれ現行犯で捕まっておりますが、事件に類似性が見られることから、同じインターネットのサイトを閲覧していた、というような共通点があるのではと推測されています。しかし、今のところは何も見つかってはいないとのことです。また、どの被疑者もとても取り調べを行えるような正常な状態ではなく、捜査は難航しているようです。一刻も早い解決が願われます。それでは次のニュースです』


 私は「物騒だなぁ」と思いながら朝食を食べた。何だか少し変な味がしたけれど、お母さんが作るのを失敗したのかも知れない。珍しい。

 その後、部屋に戻って学校の制服に着替えると、台所にいるお母さんから弁当を受け取り、居間にいるお父さんに声掛けをした。


「それじゃ行ってくるねー」

「気を付けてね」

「ちゃんと勉強するんだぞ」

「はーい」


 私は家を出て、自転車置き場から自分の自転車に乗って、学校へと向かう。荷物は前かごに入れた。

 風が気持ちいい。少しひんやりとしていて、特に手や顔の辺りに染み入るようだ。


「ふんふんふーん」


 ついつい上機嫌となり、鼻唄を口遊む。

 軽快にペダルを踏み込んでいると、道端でお婆さんが重そうな荷物を持って歩いていた。それを見た私はブレーキを握って自転車を止めた。

 そうして、お婆さんの肩を軽く叩いて声を掛ける。お婆さんはゆっくりこちらを振り向いた。


「お婆さん! 良かったら私が持ちましょうか?」

「あらまぁ、それは助かるけど、これから学校じゃあないの?」

「まあ、そうなんですけど、放ってはおけないですよー」

「それじゃお嬢さんが困るでしょう」


「うーん、ちなみにどこまで行くんですか?」

「ここをしばらく真っ直ぐ行ったところにある私の家よ」

「それなら、その荷物は前のかごに載せて、お婆さんは後ろに乗っちゃってください、ゆっくり行きますからー」


 私はお婆さんに手を貸して後ろの荷台に乗ってもらい、大きな荷物はかごに載せて出発した。私の自転車の荷台は乗りやすいので、問題はない。お婆さんの手は私の腰に回る。


「ここでいいわ」


 後ろからそう言うのが聞こえたので、自転車を止める。

 お婆さんを荷台から下ろして、大きな荷物も傍に置いた。


「ありがとうねぇ。助かったわ」

「いえいえ、それでは!」


 私は再び自転車のペダルを漕いで学校に向かう。進む方向はあまり変わらなかったので、到着時間は予定とそう変わらない。

 やがて、学校に到着した私は校門を抜ける。そこでこちらを見た教員の一人が慌てて駆け寄ってきた。どうしたのだろうか。


「その服装には風紀上の問題がある」

「え、そうですか?」


 私は改めて自分の姿を見回すが、特におかしい点はないように思えた。

 すると、彼は私を指差して告げる。


「シャツの第二ボタンが開いている」

「あー、あんな遠くから良く分かりましたねぇ」


 死角になっていて見えていなかった。私は手探りでボタンを直すと、教員に脇を抜けていく。


「それでは、失礼しまーす」


 ふと振り返ると、教員はまだ同じ場所にいた。もしかすれば服装チェックでもしているのかも知れない。

 私は自転車置き場に着くと、荷物を持って自分の教室へと向かった。

 その途上、廊下で他の生徒が遠巻きにこちらを見ているように思えた。誰も近くにいない。

 モテ期かしら、と私は首を傾げながらも自分に教室に入ると、親友の姿を見つけて寄っていく。

 彼女は座ったままこちらを見ていた。


「おはよー!」

「おはよ」

「何か今日はやたらと見られてる気がするんだけど、遂に私にモテ期が来たのかな」

「スカートがめくれてるからじゃない?」

「嘘ぉっ!?」


 私は慌てて身体を捻り後ろを向いて確認する。けれど、別にめくれている様子はない。

 向き直ると、彼女はほくそ笑んでいた。


「嘘」

「もう!」


 私は彼女の頭を手で掴むと、ギギギと力を込める。


「痛い痛い、ごめんってば」

「乙女に言っちゃならん嘘というものがあります。私、今超焦ったんだから」


 私は手を離し、すぐそこの自分の席に座る相変わらず周りに人はいない。台風の目のようだ。例外は親友だけ。彼女は座ったままだ。これで彼女までどこかに去っていくようだったら寂しくて泣いてしまう。

 少しの間、ぼんやりしていると、ドタドタと足音が聞こえたかと思えば、教室に体格の良い教員が複数入ってきた。

 何事だろう。キョトンとしていると、彼らは私をその場に押さえつけた。


「え、なになになに?」


 私は状況が掴めず、混乱する。

 と、そこで急に頭の中で声がした。


「――どうやら君はここまでらしい。僕は次の誰かのもとへ行こう。さよなら」


 私の元から黒い影が去っていくのを感じた。今朝の夢で見たものに思えた。

 瞬間、覚えのない記憶が一挙に甦る。


「……あ、れ?」


 それは私がついさっきまで見ていたはずのものとはまったく異なった光景。

 台所で包丁を手に取った私。

 無警戒なお母さんの首を突き刺した。ゴポリと口から血を吐き出していた。

 妙な物音を不審に思って来たお父さんのお腹を突き刺した。お腹を何度か刺したらすぐに動かなくなった。

 通りすがりのお婆さんの肩を突き刺した。自転車に乗せて少し先まで運んであげた。

 心配して寄ってきた教員の脇腹を突き刺した。遠目でも分かるくらい血溜まりを作って倒れていた。

 そして、怯えて動けない親友の頭を突き刺した。彼女はすぐそこで脳を飛び散らせていた。

 私は最初から最後までずっと独りで喋っていた。会話はどれも成立していなかった。なのに、どうしてから成立しているように聞こえていた。


「あ、あぁぁ……」


 私の両手はどす黒い血で塗れている。もちろん顔も、制服も。

 鉄気を帯びた生々しい臭気が鼻に飛び込んでくる。

 私の見ていた光景は全て幻で、これが現実なのだと突き付けてきた。


「嫌ああぁぁぁっ!」


 私は声の限り絶叫する。

 自分の心が瓦解していく音が聞こえたように思えた。

 全てが夢でありますように。そんな祈りと共に私は意識を手放した。

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