不思議な喫茶店

「いらっしゃいませ」


 俺は暗澹たる気持ちで年季の入った木の持ち手の扉を開くと、カランコロンという音と共に軽やかな女性の声が出迎えた。

 こじんまりとした喫茶店だ。テーブル席が三つとカウンター席が八つの店内。ゆったりとしたメロディーの音楽が流れている。

 平日の昼過ぎという中途半端な時間の為か、客は誰もいなかった。


「お好きな席へどうぞ」


 カウンターの向こうに立つ女性店員がニコッと笑みを浮かべてそう言った。他に店員らしき姿は見当たらない。随分と若く見えた。アルバイトの大学生だろうか。

 とりあえず俺はカウンター席へと座ることにする。これから込み出すかも知れないので、少ないテーブル席を占拠するのは気が引けた。


「お客様、初めてですね」


 店員はおしぼりをこちらに差し出しながら、そう述べた。


「ええ、まあ」


 と曖昧に頷いたところで、はたとおかしなことに気づく。

 彼女がアルバイトだとすれば、俺がこの店に来るのが初めてだと断言するのは無理がないだろうか。


「失礼。あなたはアルバイトではないのですか?」

「いえ、この店の店主です」


 思わぬ返しに俺は驚愕する。


「ふふ、良く間違われるんですけどね。元々は祖父がやっていたお店なんです。私も昔から手伝わせてもらっていたんですけど、一年前に祖父が亡くなったので、跡を継いだんです」

「なるほど……ちなみに、差支えがなければ年を聞いても?」


「今年で二十五になります」

「ははぁ、その年で店を構えるとは立派なもので」

「いえいえ、まだまだ若輩者なので、日々精進です」


 彼女ははにかんで見せる。物腰穏やかで鼻にかけない態度は好感が持てた。


「ご注文はどうされますか?」


 俺はカウンターに置かれたメニューを手に取り、サッと目を通してから答える。


「それじゃブレンドを一つ」

「かしこまりました。それでは少々お待ちください」


 店主はぺこりと一礼すると、コーヒーを淹れる用意を始めた。

 彼女の側には色々な器具が並べられているが、詳しくないのでその用途は不明だ。化学の授業で使いそうなガラスの器具や、上部から蒸気を噴出しそうな器具がある。あれらもコーヒーを淹れるのに使うのだろうか。


 俺は手持無沙汰になったことでふと自分の状況を思い出し、「ふぅ」と小さく溜め息を吐いた。

 店主はそれを目敏く見ていたようで、手を動かしながらも問いかけてきた。


「何かお悩み事ですか?」

「……実はちょっと仕事で面倒事が起きてまして。どうしたものか、と」


 俺がこの店を見つけたのも、居ても立ってもいられず、家の周りを放浪していた為だった。これまで近くにこんな喫茶店があるとは知らなかった。


「道理で来店された時、浮かない顔だったわけですね」


 店主は頷きながら、大きな器具にざらざらとコーヒー豆を流し込む。コーヒーミルだ。やたらとアンティークな外観をしており、回す為の取っ手が側面に付いている。それをゆっくりと回し始めた。コーヒー豆の鈍い破砕音が聞こえてくる。


「これ、もっと早く回して挽いたらいいのに、とか思いませんか?」

「確かに。とてもゆっくり回すんですね」

「あまり早く回すと、摩擦でコーヒー豆の風味が飛んじゃうんですよ。だから、焦らずゆっくり、気持ちを籠めて回すのが大切なんです」


 やがて、彼女が器具の受け口を外すと、粉末になったコーヒー豆の豊かな香りがぶわーっと目の前に広がった。


「私の祖父が良く言ってました。人の悩みはコーヒー豆のようなものだ、挽き方一つで風味がまったく違ってくる、って」

「それは何とも含蓄のあるお言葉ですね……」


 今の例で言うと、焦らないこと、だろうか。気が気でなく飛び出すように外に出てきた身としては突き刺さる言葉だ。この店に入っていなければ、今も辺りを不安な顔で放浪していたに違いない。


「私にはお客様の悩みの解決法は分かりません。ただ、せっかく当店にいらしてくれたのですから、焦燥する気持ちもフッと落ち着くような一杯をお届け出来たらと思います」


 店主はそう言いながら、俺の前にカップをコトリと置いた。幽かな湯気と共に優しい香りが立ち昇ってくる。


「お待たせしました。当店自慢のブレンドコーヒーになります。それではどうぞごゆっくりおくつろぎください」


 そして、慈愛に満ちた微笑を浮かべた。

 俺はカップにそっと口を付ける。マイルドな苦味と酸味が口に広がった。スッキリとした味わいで瑞々しさを感じさせる。余韻も鼻を抜けていくようで、仄かなコーヒーの香りだけが残り、ホッと穏やかな気持ちにさせてくれる。


「これまで飲んだ中で一番というくらいに美味しいです」

「ありがとうございます。実は今のブレンドは祖父の頃とは違って、私が自分なりに苦心して考えたものなので、そう言って貰えると凄く嬉しいです」

「そうだったんですね」


 道理で彼女の雰囲気に良く合った味だと思ったが、口にするのは気恥ずかしいのでやめておく。

 やがて、コーヒーを飲み終えた俺は席を立つと、会計をする。その際、感謝の言葉を口にした。


「今日はありがとうございました。落ち着いて悩みに向き合ってみようと思います」

「はい、頑張ってくださいね。願わくは、その悩みが無事に芳しい風味を生み出しますように」


 扉を開くとカランコロンという音が鳴る。店に入ってきた時とは違い、晴れやかな気持ちだった。


「また来ます。家も近くなので」

「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」


 彼女が祖父から受け継いだというこの店は、どうやらコーヒー豆だけでなく悩みまでも挽いてくれるらしい。

 不思議な喫茶店だ。よし、頑張ろう、と俺は気持ちを新たにして帰路に就いた。

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