温泉の素

「ねえ、君。温泉は好きかい?」


 制服の上に白衣を身に纏った少女は、傍に座って雑誌をめくっていた制服姿の少年に問いかけた。

 場所は科学部の実験室だ。周囲には様々な実験用の器具が置かれている。


「温泉? まあ、割と好きだな。これまで行ったことは数える程度だけど」


 少年はそう答えた後、「あ」と声を上げて補足する。


「美人なお姉さんと混浴に入るという夢は今も持ち続けているぞ」

「……君は何だってそういつも助平心に余念がないんだ」

「ふ、もっと褒めてくれ」

「褒めてない褒めてない」


 少女は呆れた顔で肩をすくめた。


「にしても、何で急に温泉が好きかなんて聞くんだ? ……もしかして、部長が連れて行ってくれるのか!?」

「ばばば馬鹿を言うな! そんなわけないだろっ!」


 少年の思わぬ言葉に少女は顔を真っ赤にして否定する。


「お、おう、そうか。違うなら別にいいんだ」


 少年は素直に納得するが、少女はそっぽ向いて蚊が鳴くような小声で呟く。


「まあ、君がどうしてもというなら考えなくはないけど……」


 しかし、彼女の声は少年には届いておらず、彼は問いかける。


「また何か温泉に関わる物でも作ったのか?」

「……そうだね」


 少女は釈然としない顔で頷いた。聞いていないことに怒るべきか、聞かれていなかったことに安堵するべきか、とそんな雰囲気だ。


「これがこのマッドなサイエンティストの私が今回新たに作り出した入浴剤、その名も温泉のもとだ!」


 そう言って、少女は白衣のポケットから透明な袋を取り出して掲げた。

 その中にはドーナッツ型の固体が入っている。


「めちゃくちゃそこらへんで売ってそうだな……名前的にも見た目的にも」

「ふふ、しかしその効用は桁違いだぞ。何とこれをお風呂に入れれば、今まさに温泉にいるという感覚が得られるんだ。現実と見紛う程にね」

「なるほど、それは面白そうだ。珍しくちゃんとした実験品なんじゃねえか?」

「珍しく言うな」


 少女は少年に温泉の素が入った袋を渡す。


「いつも通り俺に試してみてくれってわけだな」

「頼むよ、我が科学部の実験体一号くん。ちなみに今回の原理は、プルースト効果を利用して嗅覚から記憶を喚起することで、脳を騙し非常に再現度の高い温泉気分を味わえるという代物になっていてね……」

「相変わらず良く分かんねえから説明は不要だ」


 少女は少年が自分を信用してくれていることに頬を緩める。


「効果時間は十五分となっているから、その間は浴槽から出ないようにだけ気を付けてくれ。実際のお風呂場と記憶の温泉とで齟齬が出て危ないから」

「おし、今夜早速使ってみるぜ」


 そうして、帰宅した少年は夕食を終えた後、風呂場で少女から受け取った入浴剤を浴槽に投下した。すぐに湯に浸かる。


「ふぃー」


 入浴剤はぶくぶくと泡を立て崩れていっているが、今はまだ特に変化はない。少年は普段通りにゆったり風呂を堪能する。

 程なくして、ほんのり温泉らしい香りを感じ始めた。

 しばらく温泉に行っていないはずだが、不思議とそうだと確信できた。子供の頃に親に連れられて温泉に行った時の記憶が自ずと思い出されていく。


 気が付くと、少年の周囲は温泉へと様変わりしていた。露天風呂だ。

 満天の星と綺麗な円を描いた月が見えており、晴れ晴れとした気持ちを感じさせた。


「こいつは凄いな……」


 少年は思わず呟く。想像以上の現実感だった。今まさに広々とした露天風呂に来ているとしか思えなかった。

 湯を手で持ち上げてみる。とろりと僅かに粘度を持っているように感じられた。先程までは間違いなく普通の湯だった。入浴剤が溶けたからと言ってこうはならないだろう。

 これは本当に画期的な発明なんじゃないか、と内心で少女の作り出した物に驚嘆する。


「確か十五分が効果時間って言ってたな。じゃあ、もうそんなに残り時間もないか……」


 少年は名残惜しく感じる。それ程までにこの入浴剤での体験に感動していた。

 しかし、いつまで経っても効果が切れる気配はない。


「もう十五分経ったよな……どうなってんだ」


 待てど暮らせど景色が家の風呂場に戻らない。どう考えても既に時間は過ぎていた。

 心なし身体も熱くなってきた。実際の温泉で長湯しているような感覚だ。

 意識がぼんやりとしてくる。少年は慌てて出ようとしたが、周囲を触ってみても浴槽や壁の感覚を感じない。現実は家の風呂場にいるはずなのに、露天風呂にいるとしか思えなかった。

 少年はふらふらと彷徨うように歩いていく。その行く先は定かではなかった。


「――ということが昨夜あってだな。玄関で家族に止められてなきゃ、俺は危うく猥褻物陳列罪でお巡りさんのお世話になるところだったわけだが」

「ちょっと脳内物質を操る薬を入れ過ぎたかな……いや、でもあれくらい入れないと計算上は……」


「完全にトリップしてたわッ! どう考えてもやばいクスリ使ってただろ!?」

「失敬な。ちゃんと合法だよ、合法。まあ、違法スレスレではあるけど」

「俺の称賛と感動を返せ! 明らかに世に出しちゃいけない物じゃねえかっ!」

「何だって!? 見てなよ、すぐに商品化してみせるからな!」


 その後も二人はしばらく言い合いを続けた。

 当然、少女が作った温泉の素が世に出ることは一度もなかった。

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