十三 長安城壁(四)

 わたしは科挙かきょが何なのか知らなかったが、そばにいた真成まなり真備まきびが息を飲むのを聞いてそれが相当大変なことなのだと分かった。

 当の仲麻呂本人はいたって落ち着いた様子で弁正べんせいを見つめていた。

 ここで簡単に身分と学校について説明しておこう。

 仲麻呂の父親は「正五位下しょうごいのげ」だと言っていたが、これはわたしたちの時代にあった官吏の序列を表す位階制度におけるくらいだ。一位から八位、その下に初位そいまであって、もちろん一位が一番位が高い。位はそれぞれしょうじゅの二つ(初位は大、少の二つ)に別れていた。正の方が上の身分だよ。さらに四位しいから初位までは正、従がそれぞれまた上と下に分かれていた。

 霊亀れいきの遣唐使でいえば押使おうし多治比県守たじひのあがたもり従四位下じゅしいのげ、副使藤原宇合ふじわらのうまかい正六位下しょうろくいのげだった。宇合は位階においては仲麻呂の父親より下の身分ということになる。ちなみに役人だった真備は従八位下じゅはちいのげ

 唐の身分制度では位ではなく「ほん」という言葉を使っていた。だいたい同じようなものだと考えていい。わたし自身はそんなふうに思っている。そもそも日本の位階制度は唐のものにならったものだしね。

 で、唐では父親の身分によって入れる学校が決まっていた。

 長安には太学たいがく四門学しもんがくなどいくつか学校があったのだが、仲麻呂は父親の身分を唐の身分に当てはめると太学に入れるはずだった。

 科挙かきょ

 そうか、つばさくん、かけるくん。きみたちはそれについてももう調べていたのか。

 そう、唐で行われていた高級官僚になるためのとても難しい試験のことだ。

 毎回たくさんの学生が受けたが、合格できるのはほんのわずかだった。そもそも受けるのにも資格が必要だった。さっき言った太学のような学校を卒業していなくてはいけなかった。

 他にも受ける方法がないわけではなかったが、留学生には関係の無い方法なので話を先に進めよう。

 唐人学生でも合格するのが難しい科挙に、はるか海の向こうから来た日本人留学生が挑戦すると皇帝に伝える。

 弁正の提案、いや思いつきにみな少し呆れていた。

「そんなはったり、口にしてよいものか。のちのちかえって面倒なことになったりしないか」

「その前に一留学生を謁見の儀に出席させることができるのか?」

「おまけに唐の皇帝のそばに仕えたいだと? 我らは日本国遣唐使、留学生といえども日本国天皇にお仕えする身だ。たとえ言葉だけだとしても、まったくもってけしからん話だ」

 弁正は堂々と胸を張って立ったまま、みながこぼすのを黙って聞いていた。

「押使さま」

 仲麻呂が進み出た。

「押使さま、お願いでございます。謁見の儀に、どうかわたくしをお連れください。わたくしはわたくし自身の目でもって皇帝陛下に訴えます。わたくしは皇帝陛下にお仕えするため科挙を受けます、そして必ずや合格してみせます、と」

 場はしん、と静まりかえった。

 その中を坂合部大分さかいべのおおきだが絞り出すような声で、

「な、仲麻呂よ、本気か? 本気で科挙を受けるつもりか? 唐皇帝のそばに仕えたいとは、もう日本には帰るつもりはないということか?」

 仲麻呂は首を横に振った。

 彼はゆっくりと一同を見渡すと、

「みなさま、わたくしたち日本人はいつまでも“珍しきもの”でよいのでしょうか?」

 誰も答えなかった。

「二十年に一度、唐へ来るたびに鴻臚寺こうろじの隅に置かれ、頼れるものは皇帝陛下のご関心だけ。わたくしたち日本人はこれからもそのような在り方を続けていくべきなのでしょうか。わたくしは唐国朝廷の日本人に対する扱いをもっと向上させるべき、唐国における日本国の位置を確たるものとすべきだと思います。そのためにはやはり誰かが唐の朝廷内に入り、日本人かく在り、日本国ここに在りと示すことが必要不可欠なのではないでしょうか。もしその誰か、がわたくしの他にいないというのなら、わたくしはどうして骨身を惜しみましょう。わたくしは祖国日本を思えばこそ、異国の臣となる道を選ぶのです」

 十七歳、最年少の仲麻呂の突然の決意に、みな言葉が出なかった。やがて坂合部大分のすすり泣きだけが聞こえてきた。

 わたしから少し離れた場所にいた玄昉げんぼうが、わたしの隣にいた羽栗吉麻呂はぐりのよしまろに向かって呟いた。

「こいつは必ず科挙に受かるな」

 吉麻呂は返事をせずにただにやりと笑っていた。

 仲麻呂は大分に微笑みかけた。

「大使さま、わたくしは日本に帰る道を捨てたわけではありません。次の遣唐使を堂々と迎えるまで、わたくしができ得ることをするだけです。日本にはわたくしの帰りを待つ父母がおります。必ず帰ります」

 弁正は仲麻呂を優しいまなざしで見つめていた。その目は彼がかつて僧だったことをわたしに思い出させた。

 弁正は、

「仲麻呂どの、あなたの志を聞いてわたしは自分の考えの浅はかさが恥ずかしくなりました。しかしいまはあまり固くお考えにならずに。やはりまずは皇帝陛下のご関心を得ることが第一です。科挙には受からないほうが当たり前なのですから、皇上もそのようにしかお受け止めにならないでしょう。だが遠く海を渡ってやって来た若者に慕われて嬉しくないはずがない。上手くいけば本当に科挙を受けてみろと、受験に詳しい師を紹介してくださるかもしれない。そしてそうならなかったとしても、仲麻呂どの、あなたが科挙を受けると宣言することは日本人の向学心、日本国の学力水準の高さを証明する。さて、」

 弁正はみなを眺め回して、

「他のみなさま方、仲麻呂どのよりも祖国を思っているとおっしゃる方、ご意見をどうぞ」

 先ほど文句をつけていた連中は一斉に下を向いた。

 押使多治比県守がふうむ、と長い息を吐いた。

 押使は低く静かに、だが力強い響きのある声で言った。

「よし。この留学生を謁見の儀に連れていこう。さあ、みなの者、おもてを上げよ、胸を張れ。我らは決して珍しきものではない、日本国遣唐使節団である」

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