十三 長安城壁(三)

 弁正べんせいは歳の頃四十半ばと見受けられた。背はそれほど高くなくわたしと同じくらい、丸顔で八の字の口髭を生やしていた。

 いまは尚衣省しょういしょうという皇帝の衣服を管理する役所で働いているということだったが、一見したところ彼はまるで唐人の商人といった感じで、すたすたと歩いてくるとその場にいるみなにそつなく挨拶し、自分から自己紹介をはじめた。

 次いで弁正は一緒に連れて来ていた二人の在唐留学生を紹介した。二人は三十代半ばだったが、もっと若く見えた。だが近づくと二人とも白髪が多いことが分かった。

 在唐の留学僧たちについても弁正は「それぞれ所属している寺の規則によってすぐには外出許可が下りなかったために今日は来れなかったが、できるだけ早く顔を見せに来れるよう自分が各寺に働きかけている」、と淀みなくさらさらと説明した。

 わたしはこの人物がかつて僧衣をまとっていたとはにわかには信じられなかった。

 押使おうし多治比県守たじひのあがたもりはさっそく弁正に対し、

「皇帝陛下の碁の相手を務めたとか」

「昔の話です。褒美にいただいた妻も四年前にじゃく(死去)しました。とにかく今上陛下は珍しいものを好まれるお方でして。わたしが碁の相手を仰せつかったのも碁が得意だから、というよりは日本人が珍しかったから、です。新羅しらぎ国などは毎年朝賀ちょうが(皇帝への新年の挨拶)参列のためにやって来ますが、我々日本人は二十年に一度しか来ない。それで珍しくて関心を持っていただけているだけ。おっとこれは、押使さまに対して無礼な口をききました。お許しください」

「かまわぬ。そなたからは忌憚きたんのない意見を聞きたい。謁見の日が十月一日と決まった。謁見に際し、我々が留意しておくべきことは何か」

「ずいぶんと早く決まったのですね。それこそ皇帝陛下が日本人を珍重ちんちょうしてくださっている証しでしょう。留意すること。そうですね、目立ち過ぎずに目立つ、ということでしょうか」

 押使は少し眉根を寄せた。

「それはどういうことか」

「せっかく皇帝陛下に関心を持っていただいているのだから、それこそ我々はその関心にこたえるような珍しいことをし、結果、特別の褒美を頂戴するというのが一番良い。しかし周りの反感を買うほどのものをもらってはいけない。この加減は大変難しい。しかもそれを謁見という間違いの許されない儀式の中で行う。最高難度です。ですが押使さま、あの大海をわざわざ越えて来たのに、他の国々に見劣りせずただ無事に済めばそれで良い、などとはまさかお考えではありませんよね?」

「ううむ……」

「わたしども大宝の遣唐使の謁見では、執節使しっせつし(大宝の遣唐使で一番高い役職)粟田真人あわたのまひとさまが花をかたどった美しい冠を被り大変堂々と、かつ優雅にお振る舞いになり、当時の皇上こうじょう(皇帝)から“容止ようし(容姿)温雅おんがなり”とお褒めの言葉をいただき、宴を賜りました。さて今回は何をもってさらなる関心を得ましょうか。どうしたものやら……おや、ずいぶんとお若い方々がいらっしゃいますね。留学生ですか? おいくつですか?」

 弁正は髭の無い真成まなりと仲麻呂に目を止めた。

 二人は答えた。

井上真成いのうえのまなりと申します。十九歳です」

阿倍仲麻呂あべのなかまろと申します。十七歳です」

「ほう、阿倍氏のご子息が留学生とは。お父上はどなたかな?」

正五位下しょうごいのげ、阿倍船守ふなもりでございます」

「正五位下……十七歳……ならば太学たいがくだな……太学……京兆府試けいちょうふし……」

 弁正は何やらひとりでぶつぶつと言っていた。

 押使をはじめ霊亀れいきの遣唐使みなが黙って彼の次の言葉を待った。

 わたしは弁正の後ろにいた二人の在唐留学生たちが互いの目と目を合わせたあと、とても暗い顔をして下を向いたのが気になった。

 弁正がぽん、と手を叩いた。

「うむ、我ながらよく思いついたものだ」

 押使は苦笑いしながら、

「何であろう?」

「押使さま、先ほど押使さまが忌憚なくとおっしゃったのでその通りに申し上げます。謁見にはこの阿倍仲麻呂どのをお連れください。そして彼が目立つよう、服装と並び順をお考えください。彼の隣りはなるべく髭面の年寄りがよいでしょう」

 みな弁正が何を言い出したのかと顔を見合せた。「髭面の年寄り」とは自分のことだ、とおそらく感じたであろうお偉方は渋い顔をした。

 弁正はそんなみなの反応など全く意に介さぬ調子で続けた。

「謁見ではそれとなく仲麻呂どのを気遣い、彼に視線を送ってください。そうすれば皇上も押使さまの視線を追って仲麻呂どのをご覧になるはずです。“おや、この若者はなんだろう”と、きっと皇上はご興味をお示しになるでしょう。となれば皇上のおそばの者がすかさずそれを察知し、謁見後仲麻呂どのについて尋ねてくる。そこでこう言うのです。“この若者は大唐皇帝陛下の御徳を慕い、はるばる海を渡って来た。今日実際に龍顔りゅうがん(皇帝の顔)を拝し、感激して陛下のおそばに仕えたいとの思いをいっそう深めた。そのために科挙かきょに挑戦する覚悟を決めた。父親は日本で五品ごほんに相当する位にあるので、太学に入学を希望している”と」

「科挙だと!?」

 場は騒然とした。

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