三 上総国府(一)
各地の里から選ばれた三百人ほどの防人が、
国府に着いたわたしは密かに興奮していた。なにせ自分の里を出たのはこのときが初めてだったし、こんなに多くの人間を見たのも初めてのことだった。
上総国府の立派な黒い屋根瓦、赤い柱、その前に並んだ大勢の男たち。
ああ、おれは本当に防人になったのだと思った。
だが役人たちは並んだわたしたちを不機嫌そうに眺めてこそこそ喋っているだけで、何の指示もしなかった。
結局防人たちは放っておかれたまま日暮れを迎えた。それぞれ持ってきた魚の干物や木の実なんかを食べて、地べたに寝転ぶほかはなかった。
夜はだいぶ冷え込んだが、火を起こそうとするとどこからか役人の声が飛んできて「消せ!」と怒られた。みな震えているところへ雨が降ってきた。
防人たちは暗闇の中、雨粒をしのげる場所を探し回った。その騒ぎの最中に、わたしは里から一緒に来た二人の防人とはぐれてしまった。
疲れと寒さからもう動くのが億劫になって、わたしは雨に打たれながらいつの間にか眠ってしまっていた。
翌朝、なんだか顔が温かい……と思って目を覚ますと、見知らぬ
わたしは飛び起きた。周りにいた防人たちはわたしを指差して笑った。
わたしは顔を洗おうと、持ってきた竹の水筒を探したが見つからなかった。わたしの荷物は全部無くなっていたんだ!
うろうろと荷物を探すわたしを防人たちはみな無視した。同じ里から来た二人の男を見つけたので荷物のことを聞いたが、二人は眉間にしわを寄せて「知らない」と言っただけだった。
そのうちに役人がやって来て、防人たちを整列させた。そして一人一人どこの里の何という名の者なのかを尋ねていった。
わたしの番になった。わたしはまだ荷物が無くなったことで頭がいっぱいで、思わず自分の本当の名を言いそうになり慌てて口ごもった。
すると背が低くて小太りなその役人は、いきなりわたしの頬を平手打ちした。
「馬鹿者め! 自分の名もきちんと言えんのか!」
わたしはよろけたが、どうにか踏ん張って役人に向き直った。
「おい、おまえ、武器はどうした? まさか手ぶらで来たのか?」
防人は槍や鎌などの武器を自分で用意することになっていたんだよ。わたしはそれも無くしてしまっていた。
「答えろ!」
「……無くしました」
「無くしただと! この間抜けめ。そんなことで防人が務まると思っているのか!」
役人はわたしの腹を蹴った。わたしは吹っ飛んだ。周りの防人たちはとっさにわたしを避けた。
わたしの体は昨夜の雨でぬかるんだ地面に叩きつけられ、顔は水溜まりに落ちた。鼻と口の中に泥水が入ってきてむせた。おまけに朝飛び起きたあと必死で荷物を探していたものだから、わたしは用を足すのも忘れていて、いま腹を蹴られたせいで小便を漏らしてしまった。
「何をしている、立て!」
わたしは顔を上げた。そのときそばに立っていた男と目が合った。
それはわたしと同じ里から来た男、わたしが防人になると宣言した日、両腕に妻と娘をまつらわせて
男は汚物を見てしまったかのように、さっと顔をそむけた。
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