第33話 唾はつけないわよ。汚いじゃない
「どこからどうなってそうなるんだ」
垂れた栗色の髪が頬を擦るのを感じながら俺はそう返す。胸や腿、肩口に触れる肉感的な肌や、覆いかぶさってきたせいで鼻につく色香が蠱惑的に誘う。
高坂は可笑しそうに喉を震わせた。
「田崎って面白いよね。ちょっとくらいドキッとしてくれてもいーのに」
「お前が怖くてできないな」
馬鹿正直に答えると高坂の表情が曇る。
「別に怖くなんてない」
「意味が分からないだろ。他の女子が狙ってるから狙うのか?」
「そーいう恋があったっていーじゃん。意外とそんなもんよ。オンナノコって」
なんとなく高坂との会話の内容に既視感を覚えた。
なんだったか、思い出せないけど。
「とりあえず動機が不純だってことは分かった。どいてくれ」
俺はため息をついて顔を背けた。アンケート作りは手伝ったし、これ以上時間を取られるのも不本意だ。それにさっき桐ヶ谷に『パソコン室でアンケート作ってる。終わったら下駄箱に行く』ってラインしてしまった。
今頃桐ヶ谷は待ちぼうけを食らっているだろう。
「やだ」
「やだってお前な」
「私カラダには自信あるよ? どう?」
「どうもこうもない」
男子高校生がサルか否かで言われたら、それはきっとサルに軍配が上がるに決まっている。けどいくらサルだって多少選んだり、毒入りかどうか判断したりする知能があるのだ。
「ほらほらー、Fカップだぞー」
こんなに露骨に胸を押し当てられて警戒しないサルではなかった。理系で中身しっかりしているのかとも思ったけど、高坂の本質はやっぱりギャルに違いない。
「なあ、俺逆セクハラで怒ってもいいよな?」
「逆セクハラー? なにそれ知らなーい」
「お前な」
いい加減にしろよ、と言い終わることはなかった。
「春人……?」
ピシリと空気が凍結する幻聴が聞こえる。首を回して入り口を見るとブリザードを纏った桐ヶ谷が立っていた。オーケー、冷静になろう。
「これが乳繰り合っているように見えるなら、大間違いだ」
「そうでしょうね。春人が何かできるはずがないもの」
否定はしない。否定はしないが『ヘタレ』と言外に言われたのは気のせいだろうか。靴を脱いでPC室に上がった桐ヶ谷と、俺に圧をかける高坂との間で火花が散る。
「いーところだったのに。高嶺の花子さんはこんなとこにいないで回れ右したら?」
「女狐が何を言うのかしらね。どつかれたくなかったらさっさとどきなさい」
「暴力はんたーい。田崎ー、一回デートしたくらいで彼女ヅラする女ってナイよねー」
そんな高坂の煽りに桐ヶ谷の耳が微妙に染まった。
「べっ、別に彼女ヅラなんて私は」
「じゃーなんで毎朝一緒に登校してくるのかな?」
「ふ、ふ普通のことよ。そう、普通のこと」
「ふーん」
数秒思案していた高坂は人の悪い笑みを浮かべる。
「じゃあこのスキンシップだって友達だからじゃん」
俺の首元で高坂の豊満な双丘が潰れ、ビキ、と空間に亀裂が入る音がした。
桐ヶ谷さん、青筋を浮かべるのはどうかと思います。
「……それは違うわよね?」
地味に殺気が俺に向けられるのが怖い。俺はなにもしてない。被害者だ。
「マジでどいてくれ、高坂」
「えー? どーしよっかな」
「素直に退きなさいよ」
高坂はうーん、と唸った末に俺からスマホを奪って何事かを操作する。その間も乗りかかられていたので非常に空気が悪かった。それが終わると高坂は俺にスマホを返却しイスから飛び降りる。
「仕方ないから今日はここまでってことで。私はお先にー」
桐ヶ谷の横をすり抜けると軽快な足取りで走って行ってしまう。すぐに廊下から足音すらしなくなり、その逃げ足の速さは驚くべきものだった。
「とんだ目に遭った……」
去ってもなお密着していたせいで高坂の匂いが制服に移ってしまったような気がする。袖を嗅ぐと俺のものでない匂いがしてちょっと顔をしかめた。
そのうち取れるだろう。俺は印刷した紙を鞄にしまって桐ヶ谷に向き直る。
「待たせて悪かったな。っと」
不意をついた衝撃に手に持っていた鞄が落ちた。華奢な腕が脇腹から回され、小さな顎が肩に乗る。ふわっとシャンプーの香りが長い黒髪から仄かに漂う。
「……どうした?」
「高坂さんの匂いがするから、上書きしてあげるわ」
「そうか」
何を思って桐ヶ谷は今、俺を抱きしめているんだろうか。表情も分からなければ、この位置では耳が赤いかどうかも判別できず、俺は長いあいだ解かれるのを待っていた。
「もう大丈夫そうね」
そう言って桐ヶ谷は体を離す。
高坂のように尖っていない、麗らかな日差しのような香りが残された。それはつかず離れずの距離感を象徴するようにほんのりと空気を包む。
「帰るか」
「そうしましょう」
桐ヶ谷からのお咎めは不思議なことになかった。
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