第6話 挨拶の代わりに

 始業式初日はあんなやり取りがあったが、俺の新学期は春休みの延長のように静かだった。


「x=5で、ここがこうなるから……」


 授業間の休み時間。小声で略されている解答を導きながら問題集に向かう。側から見たらブツブツと何事かを言いながら問題を解いてる根暗野郎に見えているに違いない。去年の俺だったらバカにしこそすれ、関わり合おうとも思わない。

 そんな根暗にかけられる言葉なんて、横の席の高坂の放った「うわキモッ」に集約されるだろう。地味に傷つくから声に出すのはやめて欲しいと思う。


「なるほど、だから導関数が……ふむふむ」


 けど去年頑張って演出した「イケてる奴」よりは肩肘張らずに生活できている。春休みのうちに予習しておいたおかげで授業は聞いてればいいだけだし、授業中にさらに先の勉強もできる。

 明新高校の放任主義のおかげもあって、同じ科目をやっていれば先生から文句を言われることもないしな。

 問題集の一ページをやり終えたところで丁度チャイムが鳴り響く。次は古典だったか。俺は教科書とは別に参考書を取り出して、単語帳をパラパラとめくり復習する。


「授業を始めますよー」


 そしてまた予習の予習へと没頭していった。




 放課後。持ち帰らない教材をロッカーにしまった俺は、部活に所属していない人たちの流れに逆らって廊下を歩いていた。目指すのは校舎の端の方に位置する図書館。その小さな建物は実のところ名ばかりで、会議室や自習室などの方が多く占めている。

 去年は全く関わり合いにならなかった場所だ。

 中に入るとここ数日で見慣れた閑散としたロビーが広がっている。左右の階段を上がった三階から上が会議室や自習室で、一階と二階が図書エリア。

 俺の目的は勉強だから本来なら自習室を利用すべきだろうが、そこは受験生のピリピリした空気が漂っている。初日で辟易してからは読書スペースの隅でノートを広げていた。

 図書委員が持ち回りで座っている貸し出しカウンターを通過して、俺は書架の間をすり抜ける。高校の割には蔵書は多い方なんじゃないだろうか。

 少しカビたような古臭い匂いは気分の悪くなるものでもない。ただ少し慣れずどこか疎外されているようにも感じる。俺が静謐なこの空気に馴染むには、あと何度通えばいいのか想像が付かなかった。

 そんな本の山から逃れた隅にポツンとある、机に向かおうとした時。


「んしょ、ん……ん!」


 そんな可愛らしい声と、精一杯伸びをする小さな背中が視界に切れた。


「……」


 俺は進みかけた足を引き戻し、数メートル先の彼女を見る。

 外国の血でも入っているのだろうか、ショートの髪は天然モノの薄い色合い。それに見合うように覗く肌も透き通るように白く、まるで絵本か何かから出てきたような神秘的な雰囲気を纏っていた。誇張でもなく妖精が制服を着ているようだ。

 しかし俺が立ち止まったのは彼女に見惚れてしまったからじゃない。

 彼女の名前は林夢はやし ゆめ。同じクラスのクラスメイトだ。


「ん! ……やっぱり、脚立を持って来た方が良かったんでしょうか」


 林の身長はまあまあ低い。俺の身長よりも高さのある本棚では届かない場所もあるだろう。記憶の切れ端に『図書委員、林』と書かれた黒板を思い出した。

 実際の順序は林が図書委員であることを思い出し、その繋がりでクラスメイトだと思い至ったのだが、細かいことはいいのだ。

 何となく、林の持った分厚い本が重たそうだった。

 気に留めたのはそんな些細なこと。


「それ、俺がやろうか」


 それまで悩んでいた林は固まり、ぎこちなくこちらを見てホッと息をつく。


「田崎くん、でしたか。クラスメイト……ですよね?」

「ああ」


 人見知りのする性格なのだろう。深い藍色の丸い瞳は伏しがちにこちらを見上げてくる。林はなぜか同年代にも敬語を使うらしい。珍しくもあるが全くいない訳でもない。林の雰囲気とは不思議と合っていて違和感を覚えなかった。


「お、お願いしてもいいですか」

「了解。ここでいいのか?」

「はい。そこです」


 おずおずと渡されたハードカバーの本を、同じ装丁の隙間に入れる。

 すっぽりと過不足なくそこに収まった。


「私が横着したばかりにお手数をおかけしました……」


 そんな声に視線を下げると、申し訳なさそうにしている林の頭頂部がある。俺はそれがなんだか意外で思わず苦笑してしまった。


「いいよいいよ、このくらい。挨拶代わりとでも思ってくれれば」

「挨拶代わり、ですか」


 片付けの手伝いと挨拶が結びつかなかったのだろう。林はきょとんとした表情を俺に向ける。そのあどけなさはやはり妖精と称するのがふさわしい。


「そう。勉強してても見逃してくれよ、って意味のね」


 なので俺は人差し指を口の前に立てて、悪役っぽく笑ってみせた。林も冗談を分かってくれたのかクスクスと笑みを漏らす。


「学校は勉強するところ、ですからね」

「その通り」

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