第3話 しがない身の上話

 階段を降りる間も、敷地から出て歩道を歩く間も、俺と桐ヶ谷の間に会話はなかった。もっとも何を話そうにもうまく形になりはしない。だからこの不定形な空気にまとわりつかれながら、人であふれ暮れなずむ街を通り過ぎる。


「いらっしゃい。二人?」

「ああ。できれば、奥のテーブル席で」

「いいよ。ゆっくりしていって」


 駅近くの路地裏、六階建てアパートの一階に店を構える飲食店『デ・ローザ』のマスター冬木ふゆきは、髭面に微笑を浮かべて俺の無理を受け入れてくれた。

 緩いジャズがスピーカーから流れる店内は昼のカフェ営業から、夜のバーへと準備を進めており客はほとんどいない。橙黄色のペンダントライトから注ぐ光がよく磨き上げられた家具や床面に反射して煌めく。

 四人掛けの席で向かい合って座り、俺はブレンドを頼んだ。桐ヶ谷も同じものを注文する。


「こんなところがあるなんて知らなかったわ」


 供されたおしぼりで手を拭きつつ、桐ヶ谷がちらちらと店内を伺う。


「親の関係でな。マスターはここのアパートのオーナーでもある」


 ちなみに俺にとっては家主であり、バイトの上司でもある。ここの四階の角部屋が入学時に与えられた住む場所だった。親が知り合いということもあってか相場より安く住まわせてもらっている上に、バイトで小遣い稼ぎもできる。

 住む場所としてこれ以上の好条件もそうそうない。


「へえ。ご両親は何のお仕事をしているの?」

「端的に言ったらバイヤーだな。家具とか、美術品、民芸品、草花、食品、エトセトラエトセトラ。俺も何やってんだか分からんが年の半分以上は海外を飛び回ってるよ」

「それはまたすごいわね……」


 ちなみにこの店の内装も、冬木の『北欧の店内にしたい』というリクエストに応えて、とかいう暴挙をした。天井に架かる梁から床板から椅子テーブル調度品何から何まで。

 引き渡しの際に「た、大変だね……」と同情されてから、何かと関わるようになった気もする。まあ両親が普通でないことは察していた。

 両親のヘンテコエピソードの一つでも披露していると、芳ばしい香りと共にカップが二客運ばれて来る。コーヒー豆も冬木は両親から買い付けているとか。


「今日はこっちで食べるのかい?」

「いや、帰すのが遅くなっても困らせるだろ。自炊する」

「なんだ。せっかくカノジョさん連れてきたから夕飯も食べていくのかと思ったよ」


 冬木の言葉に、紺野をここに連れてきたことはなかったなと思い至った。何だかんだ家がどこにあるかも教えていなかったことになる。そんな些細なことが棘のようにささくれ立って傷口を刺激した。


「それはまた別のやつだよ。桐ヶ谷は友達だ」

「桐ヶ谷さんか。今度はお昼にでもおいで」

「あ……はい」


 野暮だと分かったのだろう。冬木は伝票をポケットに仕舞うと静かに準備に戻った。後で払っておこうと思いつつコーヒーを啜る。苦味の少ない、ガツンとパンチの効いたコーヒーらしいコーヒーの味が口内に広がった。


「美味しい……けどちょっと濃いかも」

「ミルク入れたら」


 トレーに付属するミルクポットを指し示す。小ぶりなそれは、この店では一つまでなら無料でついて来る。「ストレートでも、ミルクでも美味い」が冬木のこだわりなのだそうだ。


「そうする」


 つう、と白と黒が混ざり合い溶け込む。

 桐ヶ谷は一口含んでもう一度「美味しい」と言った。

 よかったな、オーナー。


「それで、桐ヶ谷はどうして俺を好きになったんだ?」


 去年の俺といえば、優馬や紺野たちのグループで群れてワイワイ騒いでいた記憶しかない。優馬が叱られていたように、出過ぎたことをして桐ヶ谷の注意を受けたこともあったがその程度の接点しかなかったように思う。


「その顔だと、覚えていなさそうね」


 思考を掬ったように言い当てられ、誤魔化しもままならず俺は首肯した。

 はあ、と呆れたように桐ヶ谷はため息をつく。


「文化祭、実行委員、ホチキス」

「……ああ」


 三つの単語が出された時点で思い当たるフシがあった。

 優馬たちとバカ騒ぎした裏で、そんなこともあったなと。

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