第53話 遺品と共に~木下俊道の落慶法要
木の香りが漂う本堂に歩みを進め、居並ぶ檀信徒の間を通って席に着く。正面には木魚と鈴(りん)。手には払子(ほっす)と経典。本山や貞観寺など縁のある寺から僧侶が駆け付け、木下の後ろに並んで読経を始めた。
再建を果たした道応寺の落慶法要。本堂はまだ柱組の上に大屋根が架かっただけで、柱の周りを紅白の幕で囲ったような状態だったが、日取りの都合などもあって見切り発車となった。まあ、後は壁をはめ込んで外構工事や鐘楼造りなどが残された程度なので、問題はなかろうということだ。
ここまで長かった。もう何度となく唱えた真言を口にしつつ、頭の中で来し方を振り返る。400年以上続いた道応寺の子として平々凡々と生きてきて、幸いにも妻子を得て暮らしていたところ、個人の力などでは抗いようもない大災害に見舞われた。結果、自らを育ててくれた両親と、掛け替えのない一粒種を失った。そして、この寺も。
堂宇に足を踏み入れた際、檀信徒の後列に、K市に住む夫妻の姿があった。道応寺のあるN市の南隣、I市で警察官だった息子を津波で亡くしたというお二人だ。K市の菩提寺が無住となり、縁寺だったことから世話をしたことがあった。夫妻が訪ねて来た時、木下はちょうど被災直後の道応寺で後片付けに追われていた頃だったこともあり、顔を見た瞬間にあの頃のことがまざまざと蘇ってきた。
両親と一人息子の俊大を失って間もない頃でもあった。自らの手で俊大の遺体を抱き上げたとはいえ、前日まで元気に走り回っていた我が子の死など、そう簡単に納得できるものではない。僧侶としての自分とは別に、幼子の痕跡を探し求める父親の自分がいた。がれきをどけ、墓石を片付け、泥をかきつつ、靴やカバンなどが見つかるたびに目を凝らした。
そんな日々が一カ月以上は続いただろうか。陽にぬくもりを感じるようになったある日、もともと池のあった場所の泥をすくっていると、泥の中から見覚えのあるコップが転がり落ちた。バケツに汲んでおいた真水で洗い、裏返すと名前が書かれていた。「きのした としひろ」。何にでも氏名を書くよう要求してくる幼稚園に通っていたため、持ち物に名前を書く癖があったことが幸いした。
一人息子のたった一つの遺品となった。俊大が好きだった戦隊ヒーロー「トッキュウジャー」のプリント化粧が付いた品だ。貞観寺に間借りしている墓に毎日備え、ほぼ肌身離さず持ち歩いている。今も着物の中に忍ばせている。
思い出にふけりつつ、コップの入った懐を触りながら読経を続けていると、何度かカメラのフラッシュがたかれた。東北新聞の記者だ。「せっかくの再建だから」。檀信徒の総代が記念に記事を書いてもらおうと呼んだそうだ。せいぜい男前に撮ってもらおうかと、残りは真剣な表情で経典を繰った。
「ここまで、本当に長かったです。あれから7年近く。ようやく再建にめどが立ちました。一日も早く完成させ、被災した住民の心のよりどころとなれるよう頑張りたいと思います」。記者のインタビューにそう答え、一連の儀式が終わった。
「被災住民のよりどころに N市の道応寺が再建」
翌日、東北新聞の県内版に記事が載った。木下が懐を押さえながら読経している写真が添えられていた。
(続)
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