第27話 「無駄の積み重ね」~江藤美智子の遍路道
木工所に足を踏み入れ、電灯のスイッチを押す。午前5時半。まだ外は暗い。この頃は朝晩が冷え込むようになってきた。政彦が吐く息が白く見える。
東北でも、どちらかと言えば山間部寄りのK市は寒冷な気候だ。近在の農家ではそろそろ、渋柿をもいで焼酎に漬け、干し柿が作られる時期だ。完成に近づけば黒っぽく染まる干し柿も、干した当初はまだ果肉の色を保っていて、政彦は家々の軒先が一斉にオレンジ色のカーテンを吊るしたようになるこの時期が好きだった。
「オレンジ色のカーテン」は政彦の言葉ではない。まだ幼かった頃、一人息子の孝則が口にした。目に映るシーンを独特の言い回しで切り取る、子どもならではの名文句。我が子ながら、うまい表現だと膝を打ったことを覚えている。
「ははっ」。楽しかった時代が昨日のことのように蘇ってきて、思わず笑みがこぼれる。木工所にいると、いつもそうだ。何せ孝則は物心つく前から、自宅の隣にあるこの場所に入り浸っていた。思春期こそは足が遠のいたが、大学を終えると、またここに戻ってきた。今度は自分の居場所として。木工職人として。
作業台も政彦の隣にもう一台置いてある。警察官を志して以降、使われなくなったものの、今では遺品となってしまったこの台を、政彦は毎朝、水拭きしてから仕事にとりかかってきた。今、もう一方の政彦の作業台には、美智子がお遍路に出掛けて以降に丹精込めた木製プレートが置かれていた。
欅の板をいったん磨き上げ、ノミで彫る。文字の形に彫りぬいたら、黒いインクを塗って墨書したように浮かせる。最後に柿渋色に塗装して、完成となる。言うは簡単だが、かんな掛けもノミ使いも、刷毛だって思い描いた通りに動かすのには熟練の手技が要る。18歳から重ねた年季が、老職工にそこいらの細工物とは趣を異にする工芸品を生み出させた。
彫る文字は最前から決めていた。孝則が巡査を拝命し、尊敬する上司からいただいた言葉だ。
伯父の良彦同様、生活安全部畑を志向した孝則だが、新米が最初から希望通りの部署に配属されるはずなどない。I警察署の地域課に属して交番に詰め、まずは警察官としての実務を仕込まれた。酔っ払いの身の上相談から近所の悪ガキの世話、地域の高齢者の話し相手。市井の中にいることこそ、「お巡りさん」の姿こそ、警察官本来の在り方だと叩き込まれた。
法を順守し、悪を裁くーー。尻の青い青年の、そんな理想は吹き飛んだことだろう。最も辛いのは犬猫探しだと言った。今や人間以上に「家族扱い」される犬猫は、特に話し相手のいない高齢者にとって掛け替えのない存在なのだが、肉体的な衰えや物忘れが増える年代とあってつなぎ忘れ、逃げ出すことが日常的にあった。
犬猫愛を滾々と聞かされ、似たような動物の通報があるたびに追いかける。人間よりも俊敏で、大きさからして物陰に隠れることもできるため、ほとんどが空振りに終わる。まれにヒットすることもあるが、一度などは防波堤の上を歩いていたという通報があり、猛ダッシュの末に飛びついたまでは良かったが、一人と一匹は勢い余ってそのまま海にダイブ。帰路のパトカーが塩水で濡れるという顛末が付いた。
「犬猫捜査」に腐り始めた孝則を諭したのが、当時の上司だった。奉職以来、一貫して地域畑だという警部補は、孝則を官舎の自室に招いては語って聞かせたという。
「江藤、無駄な仕事なんて、この世にねんだど。仕事ってのは無駄の積み重ねだ。動物の捜索だっておめ、靴底擦り減らしゃ地域に詳しくなるし、人脈も広がる。んだべ? ものは考えようだっちゃ。すべては前進なんだ」
苦労知らずで大学まで進み、民間の禄を食んだとはいっても実家の家業という世間知らずの若僧には、いたく響いたらしい。「無駄の積み重ね」「すべては前進」。一度ならず、帰省のたびに心酔した様子で語ってくれた。
「前進」。彫りぬいた言葉は墨痕鮮やかで、政彦にしても会心の出来だった。
「兄貴、いいじゃないか。今の署長もこれはたまげるべど」。出来栄えを確認に来た良彦が肩をたたいた。
明後日、良彦の口添えで、I警察署へこのプレートを寄贈しに行く。お遍路から帰宅したばかりの妻美智子を伴って。事前には何も伝えていない。「前進」の文字を見て、感じてほしい。自分たちのこれまでに、無駄などなかったことを。過去に縛られることなく、少しずつ、前を向こうと。
(続)
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