ふと気づくと、アパートの部屋で身を堅くしている自分がいた。

 一気に流れ込んでくる記憶から、和恵は状況を把握した。


(まずい。どうしよう?)


 薄いアパートの扉を叩く人がいる。


「井口さん! いらっしゃいますか? 児童相談所の者ですが、お子さんのことでお話を聞かせてください。井口さん!」


(こんなことなら、シェルターに逃げればよかった)


 灯りがついているから在宅していることは知られている。

 それでもじっとして居留守を使っていた和恵は、かつての自分の判断を後悔していた。

 夫の暴力で負った怪我を診てもらった病院でDVシェルターに行くよう説得されたが、未知の世界が怖くて断ってしまった。

 その結果、病院から児童相談所に連絡が行ったのだろう。夜で夫がいる時間帯にわざわざ訪ねてくるなんて迷惑この上ない。

 夫は部屋の奥で、子供が大声を出さないよう口を塞いでいる。

 彼らが帰った後、彼がいったいどんな行動に出るか想像するのも恐ろしい。


(このまま逃げたい)


 あの扉を開けて、児童相談所の人達に助けを求めれば救われるだろうか?

 いや、きっと無理だ。

 一時的に逃げられても、きっと捕まって今まで以上に酷い目に遭わされる。


(大丈夫。あの子がもうちょっと成長したら、きっと少しは楽になる)


 以前は和恵ひとりに向かっていた暴力が、最近は息子にも向かうようになっている。

 和恵の時と同じだ。最初恐る恐る息子に暴力をふるっていた夫は、やがてここまでなら大丈夫だという確信が持てるようになったのだろう。徐々に息子に暴力をふるう時間が長くなってきた。

 

 だから、そう、きっと今が一番大変な時期で、これからどんどん楽にはるはずだと和恵は自分を慰めた。


「どういうことだ? なんで児相が来んだよ」


 やがて児童相談所の人が帰っていくと、夫に髪の毛を摑まれて引きずり回されて殴られた。

 息子はどうしたんだろうと殴られながら薄目を開けて見ると、奥の方でぐったり横たわっていた。

 変な感じに投げ出された腕や足、首の曲がり方がおかしいのは気のせいだろうか?


「……え? あれ? みっくん?」


 びっくりして這って近づき、抱き上げる。

 息子の身体は、不自然にしていた。


「おまえが悪いんだ。おまえがヘマをしてあんな奴らを呼び寄せるから……」


 夫の手が、また髪を摑む。


(そっか……。あたしも殺されるんだ)


 そう確信したとき、頭の中に性別不詳の低い声が響いた。


 ――二度も死を味わうことはない。戻れ。


 そして和恵はまた意識を刈り取られた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る