意識が戻った瞬間、感じた眩しさに麻美は思わず目を閉じた。

 気を取り直して、おそるおそるもう一度目を開けると、そこは豪華できらびやかな世界だった。


(ああ、そうだった。もう全て終わってたのね)


 ここは、麻美が日常的に通っているホストクラブ。それを思い出すと同時に、ここ何年かの記憶が滝のように流れ込んできた。


(そう。あの時、私は夫を選んでしまった)


 何度目かの話し合いの後、麻美は夫に従う道を選んだ。

 お腹の子を諦め、夫の為に懸命に働き、創業百二十年目のイベントも完璧にこなした。

 そしてその後、夫に捨てられたのだ。


「向こうに子供が出来た。別れてくれ」


 夫が浮気をしていたことすら知らなかった麻美にとって、まさに青天の霹靂だった。

 麻美は話し合いを望んだが、夫は離婚届を差し出すばかりで話し合いに応じない。そうこうしているうちに義母が来て、慰謝料だとマンションの権利書と大金の入った通帳を渡された。


「あなたもその年齢では、今から子供を産むのは難しいでしょう。もう、あの子を解放してちょうだい」


 その場で、夫とつき合っている女がまだ二十代で、しかも取引先の令嬢なのだと言うことも知らされた。夫の浮気で別れたとなると世間体が悪いから、子供を産めない麻美が自分で身を引いたことにしろとも言われた。

 目の前に置かれた通帳の金は、慰謝料ではなく口止め料なのだと麻美は悟った。


(なにを勝手なことを!)


 子供を諦めるよう強要したのは夫と義母だ。義母の口ぶりから、夫にその女性を紹介したのも義母だったことを知った。

 そして、夫と彼女のつき合いがすでに一年以上続いていることも……。


(ああ、だから私に子供を産ませたくなかったのね)


 なんて酷い裏切りだ。

 麻美は、自らの怒りで身の内が焼き尽くされるのではないかと思った。夫のあまりにも酷い裏切りを許せそうにない。

 だが、いくらそれを訴えたところで、自分のこの怒りと悲しみが、夫や義母には通じないことも充分すぎるほど知っていた。


(私の中に、もうあの人への愛はない)


 顔も見たくなかったから、別れることに同意した。

 幸いにも住むところも一生暮らしていけるだけのお金もある。全て忘れて新しい人生を生きようと麻美は決意した。

 なにもせずにいるのは退屈だから短時間のパート先を見つけ、習い事にも手を出した。

 再出発は最初のうちは順調だったが、やがて麻美自身の心の問題でつまづくようになった。


(もしも、あの時の子が生きていたら……)


 パート先や習い事に行った先の知人の話の中で、子供の話を聞く度、ちくりと胸が痛んだ。

 夫と義母に強要されたとはいえ、最終的に頷いたのは自分だ。自分が死なせてしまった子を惜しんで嘆く己の愚かさに、ほとほと嫌気が差す。もう取り返しのつかない過去に対する罪悪感と悲しみに、心が張り裂けそうになる。

 胸の痛みに耐えきれなくなった麻美は、パートや習い事から手を引いた。

 元々家族とは疎遠で、唯一身内のようなつき合いがあった友人の家からも足が遠のいた。彼女の子供を見ているのが辛かったからだ。


(ああ、私はひとりきり……)


 寂しい、虚しい。ひとりに耐えきれなくなった麻美は、夜の街に飲みに出掛けるようになった。お酒に酔って、その場で出会ったばかりの朗らかな他人と笑っているときだけ胸の痛みを忘れられる。そんな中で知り合った人に誘われるまま、ホストクラブにも足を運ぶようになった。

 金さえ払えば楽しい時間を提供してくれる若い男の子達、年上の麻美に甘えるように話しかけてくる彼らに、満たされない母性本能をくすぐられた。

 ふと気づくと、男の子達に甘えられるまま、湯水のようにお金を使う自分がそこにいた。


「ねえ、麻美さん。俺、もうじき誕生日なんですよ。お祝いしてくれませんか?」

「もちろん、いいわよ。ぱあっと大きなシャンパンタワーを立てましょうか」


 グラス代とシャンパン代で幾らかかるか、麻美は今までの経験から知っていた。そして、今の自分に、それを支払うお金がもうほとんど残っていないことも……。


(大丈夫。まだマンションがあるわ。あれを売れば、あともう少しだけここにいられる)


 でも、その後はどうしたらいい?

 お金がなくなったら、きっと男の子達は麻美に甘えてはくれない。

 その程度のつき合いだとわかっているのに、この華やかで眩しい空間からどうしても離れることができない。


(もう、いい。もう、なにもかも終わったんだわ)


 かつて夫だったあの男を愛してしまった時から、自分の人生はすでに終わりに向かって走り出していたんだろう。

 麻美はきらきら眩しいホストクラブの光の中で、もう一度目を閉じた。


 ――それでは次の道に誘おう。


 性別不詳の低い声が聞こえて、また意識が遠のいていく。

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