第11話 うにゃーの主

 さっきまでいなかった黒猫がいるということは、この編集部の誰かが猫になったと言うことだ。思い返せば、うにゃーの前にさりげなくぽんって音が聞こえた気がする。

 私はそんなことを考えながら、足元の黒猫を見た。


 あれ、この猫どこかで見たことがあるような。

 黒猫、黒猫。

 どこで見たんだ、黒猫ちゃん。


 記憶を辿っていくと、ばんっと頭に我が家が浮かぶ。

 家の裏にやけに毛並みが良くて、珍しく私から逃げない黒猫がいたを思い出す。おそらくあの猫だ。黒猫は、今もあのときと同じように逃げない。

 あれから姿を見ていないから、久しぶりの再会ということになる。


 うん、前と変わらずすごく可愛い。

 ――で、誰なんだ。この猫は。


 タロウ編集長ではないし、当然、乙女でもない。

 ただ、よくわからないけれど可愛いことは確かで、いやいや、今は可愛いことより黒猫が誰かってことが問題で。


 あまりに黒猫ちゃんが愛らしくて、思考が紙くずのようにぐしゃぐしゃなる。

 私が可愛いコールを入れながら頭を悩ませ、うむむむ、と眉間に皺を寄せていると、サカナさんが答えをくれた。


「その子は、セレネですよ。猫じゃらしは対セレネ兵器でもあるんです。遊び好きで、猫じゃらしを見るとすぐに猫に戻っちゃうんですよ」


 言われて見れば、黒猫のツヤツヤな毛はセレネさんの黒髪によく似ている。私はそんなに猫じゃらしが好きならばと、彼女の前で猫じゃらしを揺らした。すると、セレネさんがうにゃうにゃとご機嫌な様子で飛びついてくる。


 右へ振ると右へ。

 左へ振ると左へ。

 上へちょいっと上げれば、ぴょんとジャンプする。


 ああ、可愛い。

 愛おしすぎる。


 くりくりとしたお目々を爛々とさせて、しなやかなあんよで床を蹴る。

 なんて、素敵なんだろう。


 私はうっとりしながら、猫じゃらしを揺らす手を止める。あのとき撫でさせてくれた黒猫がセレネさんということは、今も撫でることができるはずだ。


 私は、躊躇いなくセレネさんの頭に手を伸ばす。すると、セレネさんの方からぐりぐりと頭を手に押しつけてきた。私は艶やかな毛並みを堪能しながら、愛らしい小さな頭を撫で撫でする。顎の下もこちょこちょとくすぐると、セレネさんがゴロゴロと喉を鳴らし始めた。


 獣使いの能力で魅了されたのか、彼女は私にべったりとくっついて離れない。何を言っているかわからないけれど、うにゃうにゃ鳴いてもいる。私は猫の可愛さを味わい尽くすべく、禿げを作る勢いでセレネさんを撫で回した。


 乙女のように、大人しく撫でさせてくれる猫がいるなんて奇跡だ。すごく嬉しくて編集部の中を走り回りたいくらいだけれど、一つだけ気になることがあった。


「なんで逃げないの?」


 そう、今までの猫はもれなくと言っても過言ではないほど、私から逃げた。逃げまくった。それなのに、セレネさんは逃げない。


 何か理由があるなら知りたい。

 理由がわかれば、猫に近づくことができそうな気がする。


「セレネは、他の猫に比べて人間が好きなんです。あと、怖い物知らずなところがありますから、きっと瀬利奈さんのことも怖くないんでしょう。今は、抱っこして欲しいと言ってますよ」


 サカナさんがさらりと言って、セレネさんを撫でた。


「私が怖くないなんて、セレネさんって最高の猫ですね! でも、怖い物知らずが理由なら、他の猫に近づく参考にはできそうにないなあ」


 私は、床の上から黒猫を抱き上げる。

 軽い。すごく軽い。

 そして、小さい。

 メインクーンの大きさに慣れている私には、新鮮なサイズ感だ。


 可愛いと呟きながらむぎゅーと抱きしめると、うにゃんっと嬉しそうな鳴き声が聞こえた。


「忘れているようですが、以前話したとおりこの編集部なら編集長以外は瀬利奈さんと仲良くできますよ」

「じゃあ、コテツさんも逃げないんですよね?」

「コテツは、お金が大好きですからね。怖いのはお金がなくなることだけで、瀬利奈さんのことは怖がらないと思います。ここの猫は、みんな変わり者なんですよ」


 私は腕の中の黒猫を撫でながら、確かにそうだとしみじみと思う。


 自分で言いたくはないが、自ら頭を擦り付けてくる猫なんて乙女以外見たことがない。はっきり言って、セレネさんは変わっている。コテツさんも、お金が大好きな猫なんて聞いたことがないからかなりの変わり者であることは間違いないだろう。


 猫編集部は、ヘンテコな猫を集めて作られたのかもしれない。

 そんなことを考えながらセレネさんを撫でていると、背中にぴたりと温かい塊がくっついてきた。


「ねー、リナ。わたしとも遊んで」


 背中にぴったりと張り付いているのは乙女で、彼女は言葉とともに私を力一杯抱きしめる。


 えっと、だいぶ苦しい。


 回された乙女の腕がお腹を圧迫していて、たっぷり詰め込んだ鮭とご飯が胃の中で暴れている。


「乙女、ちょっと腕を緩めて。胃から鮭が出る」

「言うこと聞いたら、遊んでくれる?」

「遊ぶ、すごく遊ぶ。だから、ちょっと待ってて」


 息も絶え絶えにそう言うと、乙女が私から離れる。隣から、いいなー、とセレネさんを羨む声が聞こえてくるが、今はちょっと耳を塞いでおく。


 私は、腕の中のセレネさんを撫でる。

 家の裏で一度会ったきり姿を見なかったから、どうしたのかと心配していた。それが、こんなところで二度目の再会を果たすことになるなんて。


 いやいや、待て待て。本当にセレネさんでいいんだよね?


 私に懐く猫なんてそうそういないから、間違いないとは思うけれど。

 私は一応、本人というか本猫に尋ねる。


「セレネさんって、私の家の裏にいた黒猫さんですよね?」


 問いかけると、セレネさんが、うにゃーん、と鳴く。

 当然ながら、何を言っているのかわからない。

 わからないけれど、乙女が通訳してくれる。


「そうだって言ってるよ」

「猫の国の猫って、人間の世界によく遊びに来るんですか?」

「うにゃんにゃ、にゃあ」


 セレネさんが返事をしてくれるのは、とても嬉しい。

 でも、このままではスムーズに話ができない。


「……すみません、人間になってもらえますか?」

「んにゃー」


 小さく鳴いたセレネさんは名残惜しそうな顔をしたけれど、魅了の力なのか素直に言うことを聞いて腕の中から飛び降りる。と言っても、落ち着くまでは人間に変身できない。


 私はセレネさんが人間に変身できるようになるのを待ちつつ、乙女と仲良く椅子を並べて座る。そして、乙女の髪を撫でてやる。他にも彼女にしてやれることがありそうなものだけれど、本人が撫で撫でを所望したのだから仕方がない。とりあえず、暑苦しいくらい私の体にべったりとくっついた乙女が満足そうな顔をしているから、これでいいんだろう。


 彼女が嬉しいなら、私も嬉しい。

 でも、いつまでもこんなことをしていて良いんだろうか。


 私はお昼休みがいつまでなのか気になって、時計を確認しようとした。だが、時計を見る前に後ろから抱きしめられる。


「瀬利奈ちゃん、覚えててくれたんだね! あたし、瀬利奈ちゃんに撫でてもらった黒猫だよ」


 声からセレネさんだとわかる。

 激しく抱きしめられているせいで、振り返って確かめることはできないけれど。


「猫の国の猫は、あまり人間の世界には行かないんだけどね。あたしは人間が好きだから、ときどき遊びに行ってる。そのときに、瀬利奈ちゃんに会ったの。また撫でてもらえて嬉しいな」


 セレネさんは一気にそう言うと、私のほっぺたに頬を擦り付けてくる。彼女はサカナさんと違って、スキンシップが激しいタイプらしい。


 すりすりと頬をくっつけてくる彼女の行動は、猫っぽいと言えば猫っぽいけれど今はちょっとまずい。人間の姿ですることではない。近距離は、私の心臓によろしくないのだ。だって、心臓の音が少し速くなっている。


 息を吸って、吐いて。

 すーはー、すーはー。

 静まれ、心臓。


 しかし、私の願いも空しく、乙女が「リナは私のっ」と言ってセレネさんの真似をするように頬を擦り付けてくる。


 密着度が高い。

 距離が近すぎる。


 両手に花は良いけれど、ゼロ距離とかダメだから。

 二人からむぎゅむぎゅと抱きしめられながら、私がうーんと唸っているとタロウ編集長が思い出したように言った。

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