第6話 ミヨルメントの秘密

 嵐のようなアルバイト初日を終えた私は、編集部の扉を開けて倉庫を抜けた先にある“ミヨルメント”へと出る。


 我が家から徒歩十五分の場所に一年前にオープンした猫専門トリミング店“ミヨルメント”は、猫の国への出入り口であると同時に乙女の行きつけの店だ。

 どんな気難しい猫が相手でもカットからシャンプー、爪切りまで完璧に仕上げてくれると評判で、美人で猫たらし揃いの店員さんは魔法使いのようだと言われている。


 それもそのはず、猫編集部と繋がっていることからもわかる通り、ミヨルメントは店員さん三人すべてが猫なのだ。もちろん、お店では人間の姿で仕事をしている。


「一歳半でしたっけ、乙女ちゃん」


 そう言って、店長のかえでさんがブラウンタビー、わかりやすく言えばキジトラ模様の猫に戻った乙女を撫でた。楓さんをいたく気に入っている乙女は、機嫌が良さそうに喉を鳴らす。


 乙女は編集部で猫に戻り、私に抱えられてミヨルメントにやってきた。今は、店内の休憩スペースで猫らしくしている。


「そうです。でも、大きすぎて一歳半とは思えないです」


 椅子に座った私の膝の上、一般的な猫よりも大きな乙女がいた。

 家に来たときから大きめだったけれど、今は子猫のときの面影がないくらいにしっかりとした体になっている。


「メインクーンは大きくなりますからね」


 長い黒髪と青い目が綺麗な楓さんがにこりと笑う。

 彼女は三十代前半くらいに見えるけれど、猫として何歳なのかはわからない。タロウ編集長は、人間に変身したときの見た目と猫としての年齢は関係ないと言っていた。


 私は店内を見渡す。

 ミヨルメントに通うようになってから半年ほど。

 三日前にこの店でタロウ編集長にスカウトされるまで、ここが普通の店だと信じていた。


 あの日、ミヨルメントでアルバイトをするのかと思った私は猫編集部に連れて行かれ、猫がミヨルメントを経営していることや、人間に変身できる猫がいることを知らされて今に至る。

 異世界は、意外にも近所にあったのだ。

 しかも、愛猫が人間になるなんて予想もしなかった。


「ここの店員さんも、みんな猫なんですよね」


 他のお客さんがいないことを確認してから、楓さんに尋ねる。

 ミヨルメントの店員さんは、編集部の人たち以上に人間っぽい雰囲気がある。


「そうですよ。アイルちゃんも白雪しらゆきちゃんも猫です」


 楓さんが店員さん二人の名前を口にする。


「人間になる訓練って、先生役の猫がいるんですか?」

「大体ここの店員か、編集部の人が先生役をしていますね。乙女ちゃんは、私が教えたんですよ」

「知りませんでした」


 どうりで、乙女が楓さんに懐いているわけだ。今も、にゃあにゃあと鳴いて楓さんとお喋りしている。

 思い返せば、この店では普段それほど鳴かない乙女がえらく鳴いていた。先生と生徒で反省会か、次回の打ち合わせでもしていたのかもしれない。


「それにしても、預けている間に、乙女が人間になれるようになってるなんて。驚きました」


 猫の国の窓口になっているミヨルメントは、お客さんから預かった猫を猫の国へ連れて行き、人間に変身する方法や人間との付き合い方を教えたりする役割を担っている。乙女もトリミングの合間に、猫の国で色々教えてもらったと言っていた。

 まさか、飼い猫からこんなことを聞くことになるとは思わなかったけれど。


 でも、ミヨルメントに通っていて良かった。乙女が普段何を考えているのか知りたかったから、変身時限定とは言え話ができるのは嬉しい。


「あの、乙女も店長さん達みたいに、こっちの世界で人間になることはできないんですか?」


 乙女とはさっきたくさん話をしたけれど、まだ聞きたいことが山ほどある。


「人間界でも、変身することはできますよ。でも、こちらの世界でむやみやたらに人間に変身してはいけないという掟があるんです。だから、ミヨルメントの店員のように仕事をしているとか、特別な理由がないと人間の姿で行動できない決まりになっています。瀬利奈さんは、乙女ちゃんが人間の方がいいですか?」

「んー、どっちも好きなのでどっちでも良いです」


 乙女は、人間になっても可愛いし綺麗だ。

 でも、見慣れた猫の姿も可愛くて綺麗だ。

 それに、長毛種の乙女はもふもふでふわふわで、撫でると気持ちが良くて癒やされる。大きな耳のてっぺんにぴんっと生えている毛、リンクスティップも凜々しくて素敵だ。しかも、近寄っても逃げないし、好きなだけ撫でさせてくれる。


 私が撫で放題な動物なんてそうそういない。

 乙女は貴重な存在なのだ。

 

「瀬利奈さん。時間、大丈夫ですか?」


 楓さんの声に時計を見れば、八時が近かった。


「あっ、そろそろ帰ります」

「次は土曜日ですか?」

「そうです。また乙女と一緒に来ます」

「わかりました。もう暗いですから、気をつけて帰ってくださいね」


 元気よく「はい」と答えて、私は乙女にリードを付けて抱える。


「お、おも……」


 乙女は重い。大きな猫だけあって重い。

 けれど、女の子に体重の話は禁物のようで、抗議の鳴き声が上がる。


「うにゃっ!」

「あー、ごめんね」


 謝りながらよいしょと乙女を抱っこして、店を出る。

 乙女を本人の希望通り自転車の前カゴに乗せ、私は猫用のキャリーバッグを肩にかけた。行きはキャリーバッグに入れてきたけれど、キャリーバッグはお気に召さないらしい。


 街灯に照らされた街の中。


 私は、春とは言えまだ冷たい風に吹かれながら自転車を漕ぐ。佐々木さんちと住田さんちの玄関の前を通って、ミヨルメントから十分も経たないうちに我が家が見えてくる。

 玄関の前に自転車を置き、「ただいまー」と家に入ってリビングへ行くと、すぐに母親の声が聞こえてきた。


「乙女、ちゃんと連れて帰ってきた?」

「もちろん」


 短く答えて、抱えていた大きな猫を解き放つ。床に降り立った乙女は縮まっていた体を伸ばし、ぷるると体を震わせるとうにゃーんと鳴く。すると、母親がミルクチョコレートよりも甘い声を出した。


「乙女ちゃーん、おかえり。ママですよー。ミヨルメントで良い子にしてたかにゃー?」

「お母さん、可愛い娘も帰ってきたんだけど」

「おかえり」


 素っ気ない。

 娘に対して素っ気なさ過ぎる。

 乙女が実の娘で、私は他人だと言われても驚かないレベルで対応に差がある。


「そう言えば、瀬利奈。バイトはどうだったの? お客さんや店員さんに迷惑かけたりしなかった?」

「大丈夫、ちゃんと働いてきた」


 帰宅部で、夜遊びすることもないそこそこ真面目な高校生。それが家での私だ。だから、突然帰りが遅くなったら、不良にでもなったのかと思われかねない。かといって、猫の国の猫編集部でアルバイトをすることになったと言ったら、頭のネジが全部吹っ飛んだと思われる。


 そんなわけで私は、ミヨルメントでアルバイトをしていることになっている。


「それならいいけど。ところで、本当に乙女も一緒に行っていいの?」

「えーと、あれだよ、あれ。トリミングの練習させて欲しいって」

「そういうものなの? お母さんよくわからないけど。まあ、早く着替えておいで。お父さんもうすぐ帰ってくるから、夕飯にするよ」


 ぴくり、と乙女の耳が反応する。

 私の耳もぴくりと反応したけれど、はーいと答えるより先にお腹がぐうっと返事をした。

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