誰もが事件の捜査や噂話で持ち切りだ。そんなときに、わざわざ好んで図書室に足を運び、事件とは無関係の本を読むような人物は、リトルガーデンには存在しない。

 ただ一人、事件の真相を知っているアカネを除いては。

 アカネは、授業が終わった後、一人きりの図書館で本を読みふけっていた。床から天井まで届きそうな本棚が、壁際にずらりと並べられている。その棚には寸分の隙間もなく、様々なジャンルの本が収まっていた。難しくて分厚い歴史書から、薄くて簡単な童話まで。今アカネが読んでいるのは後者だ。自分よりも少し幼い子供が読むような、夢物語が載った本である。

 夢物語な童話には、必ずと言っていいほど姫と王子が出てきて、ご都合主義で結ばれる。そんな物語は、平生であればカオルと誰かの姿を連想してしまうため、本来敬遠するジャンルである。けれど、今日だけは別だ。今日だけは、これを『夢物語』だと断定して読むことができる。それが、妙に心地が良いのである。

 図書館には人がいない。司書も、先ほど教師と看護師に呼び出されてここから慌しく去っていった。恐らく、事件についての取り調べでもされるのだろう。正真正銘一人きりの空間に、アカネは軽く鼻歌を響かせる。

 リトルガーデンには、心地よく歌える場所はそうない。常に人目があるためである。それを気にしないで適当なリズムを刻むだけで、元より機嫌の良いアカネは、さらに機嫌を良くすることができた。

 どんなに変哲なリズムでも、一人なら誰にも馬鹿にされることはない。身体を揺らして、白い指で夢物語の頁を捲る。ぱらり、と紙の音が響いた時、その声は突然やってきた。


「ご機嫌ね」

「……は」

「こんにちは、アカネ」


 脳内で幾千と再生された言葉が、呆気なく渡された。反射的に本を閉じたアカネは、声のした方向を呆然と見つめる。

 艶やかな長い黒髪が、腰元で緩やかに波打つ。長い睫毛は光に輝き、その下にある橙色の垂れた瞳はもっと光を帯びて、まるで宝石のように煌めいていた。白いワンピースは彼女を引き立てるドレスのように華麗で、とても自分と同じものだとは思えない。

 微笑みを携えた麗しい顔は、西洋の人形を思わせる。物語の挿絵に描かれる姫よりも、余程姫らしい美しい少女――カオルは、いつからか、アカネの三つ隣の席に座っていた。

 その光景を見た時、アカネの脳内は一瞬で真っ白に染まった。

 あれだけ欲しがっていた挨拶の言葉が、カオルから投げかけられたこと。それが、予測していないタイミングで行われたこと。この場には誰もおらず、先ほどの言葉は自分だけに投げかけられたこと。彼女の柔らかい声で名前を呼ばれた上、それが呼び捨てだったこと。奇天烈な鼻歌を聞かれてしまったこと。

 それらの衝撃が纏まって鈍器となり、アカネの後頭部を殴る。一気に顔に熱を集中させたアカネを見て、カオルは、上品な微笑みを口元に浮かべた。


「今の、何の歌? 聞いたことがなかったけれど」

「……べ、つに、なんでも……」

「まあ、もしかして自作? ふふ、可愛いセンスなのね」


 皮肉か、本音か、いまいち掴めない。カオルは口元に手を当てて笑い声を零すと、その瞳を三日月形に細めた。

 非常に羞恥を煽られて、アカネは思わず本を両手で握りしめる。硬い背表紙はびくともしなかったが、その代わり、カオルの視線がその本へと注がれることとなった。


「童話ね。そのタイトルは、確か……お姫様と王子様が結ばれるお話だったかしら」

「……そうだよ」

「貴女がそれを読むなんて、意外だわ」

「わ、私が何を読んだって君には関係ないでしょ。何か悪いの?」


 一言を紡ぐことに震えそうになる声で、アカネは必死に平生を装った。彼女と会話をしている、という事実は当然として、アカネを極度に緊張させるのは、彼女自身が自らの意思で会話をしている、という現状だった。

 カオルは、皆が憧れるお姫様なのである。皆、彼女と親しくなりたがって各々話題を持ち込む。カオルは柔和に微笑みながら、それらを返して会話をする。それがカオルの常であると、長いこと観察を続けたアカネは知っている。

 カオル自身が会話を切り出して質問を投げかけるのは、非常に珍しいことだった。挨拶ならともかく、他愛のない話をしようとする彼女なんて、滅多に見られない。その対象が自分であることに、アカネは狂喜を隠せない。早鐘を打つ心臓を悟られないように、アカネはいつも以上に鋭い目付きでカオルを見据える。彼女はそんな顔を向けられても、傷ついたような顔や狼狽えるような態度は決して見せなかった。


「いいえ。貴女はそういう話が嫌いだと思っていたから、不思議だっただけ」

「……君、私の何を知ってるの」

「あら、貴女が思っている以上には知ってるわよ。あたしへの悪口が絶えないこと、素直じゃないけれど本当は優しいこと、いつもご飯のときにあたしの三つ隣の席に座ること、いつもはミステリー系の本を読むこと、ご機嫌なときは自作の鼻歌を歌うこと」


 指折りで『知っている』を数えるカオルの姿に、アカネはわなわなと肩を震わせる。最後の一つは、完全に揶揄いの意味を含んでいた。けれど、それに声を荒げて怒鳴れないのは、それを把握するに至るまで、彼女は自分を認知していたという点である。

 意図的に挨拶をされないのは知っていた。どんなに目があっても、どれだけ近くを通りかかっても、アカネだけ無視をされるからである。けれど、そんな風に言われれば、それは嫌悪ではなく、もしかしたら別の感情によるものだったのかもしれない、と思えてくる。

 アカネの頬は、林檎のように赤くなった。それは、物語における陳腐な比喩表現である。月並み過ぎて面白みのない表現が、今のアカネに相応しい。

 だって、アカネの胸の内を占める感情は、本で綴られる在り来たりな恋情そのものだった。


「……全然、分かってない……」

「あら。何か外れてた?」

「一番大事なことが外れてる」


 胸の内で騒ぎ立てる心臓の声に従って、アカネはぽつぽつとか細い声を絞り出した。熱で脳が融けてしまいそうだ。既に理性が蕩けかけていて、今すぐにでも「本当は貴女が好きなのだ」と零してしまいそうになる。

 橙色の瞳は、全てを見透かすような神秘さを持て余していた。その瞳と見つめ合うことは、未だ恥ずかしい。自分の感情を隠す様に顔を背けたアカネの三つ隣で、カオルは「そうねぇ」と考え込む動作をする。それから、「ああ」と納得した声を出した。


「分かった。あなたにとって、一番大事なことだわ」

「分かったなら言って。答え合わせをしてあげる」

「ふふ、なんだかクイズみたいでドキドキするわね」


 幼子のように声を弾ませたカオルは、そう言って静かにその席を立った。がたん、と椅子が後ろに下がる音がする。その後、漂ってくる金木犀の香りが強くなったことに気が付いて、アカネは思わずそちらに視線をやった。

 カオルは、二人の間にあった空白を詰めていた。アカネのすぐ隣の椅子に、すぐに触れられる距離に腰を下ろすと、何処か妖艶さを纏う眼差しでカオルを見つめる。僅かに薄らと色づいた頬の赤色から、目が離せない。彼女に釘付けになったアカネの眼前に、カオルの顔が迫る。鼻先がぶつかりそうな距離感は、最早眩暈がするようだった。

 金木犀の甘い香りが鼻孔を擽る。愛らしい花と同じ色の瞳は、熱を帯びてゆっくりと瞬きを繰り返す。しっとりとした桜桃の唇は、すぐそこにあった。

 カオルの呼吸が唇に触れる。肩を跳ねさせたアカネを見て、カオルは揶揄うような笑い声を一つ零した。

 彼女の白魚のような指が伸びてくる。その指は、アカネの唇に躊躇いなく触れた。

 カオルの指の腹は、存外冷たい。それとも、アカネの唇が熱いのだろうか。両者の明確な温度差は、時間が経過すればするほど曖昧になっていく。カオルの指は僅かにアカネの唇を押しこむ様に触れて、それから、艶やかな唇をゆっくりと動かした。


「貴女が金木犀の枝を折った犯人ってことも、あたし、知ってるわよ」


 目の前の瞳が三日月を描く。光の辺り具合で影が落ちた瞳は、何処か怪しさを漂わせていた。

 先ほどまで大きく高鳴っていた心臓が、一変して、嫌な音を立てる。え、と口から零れた動揺の声に、カオルは言葉を続ける。


「折った枝は、多分ポケットの中よね。袋か何かに入れて、保管してあると思うの。部屋に置いておくと見つかるかもしれないから、肌身離さず持ってるんでしょう?」

「……何を、そんな……」

「貴女が枝折るとこ、実はこっそり見ていたの」


 覗き見してごめんなさいね、とカオルが笑う。目の前の美麗な微笑みは背筋が凍るほど恐ろしい。

 硬直したアカネのポケットの中に、カオルの指先が侵入する。ほどなくして、彼女の優美な指によって不格好な手作りの袋が引っ張り出された。不自然に膨らんだ袋からは、強い金木犀の香りが漂ってくる。決して言い逃れることはできない。袋の表面に浮かんだ凹凸は、明らかに、植物の枝が入っていることを物語っていた。


「ああ、安心してね。先生には犯人の見当がつかないって報告したし、これからも貴女が犯人だって言うつもりはないの」

「……何で……」

「貴女が罰を受けるところを見るのがイヤだから。可哀想だし」


 まるで、慈愛に満ちた聖女の慈悲を掛けられているような気分だった。不格好な袋は机の上に、罪を晒すように平然と置かれる。唇に触れていた指はそのまま横に滑り、なだらかな輪郭を確認するように頬に添えられた。


「それにね、私、貴女に感謝しているのよ」

「かん、しゃ?」

「そう。ここ……リトルガーデンが外で何て呼ばれているか、知っている?」

「し、知らないけど」

「少女植物園。俗称だけれど、皆そっちの方で呼ぶんですって」


 その一言を口にしたカオルは、微笑みの中に確かな憂鬱を一欠けら混ぜた。静かに離れていく顔には、今まで見たこともないような、何か冷徹なものがある。

 少女植物園。確かに、それが指す意味の大凡のところは理解できる。しかし――。


「少女植物園なんて、ねえ、なんだか見世物にされているみたいで、気分が悪くない?」


 アカネが心の内で思った言葉を、カオルの柔らかな声が読み上げた。彼女の表情が浮かべる嫌悪の影は、その言葉で全てが説明できるだろう。

 姿勢を正したカオルは、アカネの隣で行儀よく椅子に座る。先ほど口付けてしまいそうなほどの距離感にいたとは到底思えない。何事もなかったかのように澄まし顔をするカオルは、そのまま参ったと言わんばかりに肩を竦めた。その姿は、遠めから見ていた時よりも何処か感情的で、生き生きとしているように見える。姫というよりは、単純に美しいだけの、何処にでもいるような少女という印象が強い。

――まるで、アカネの前でだけ、ドレスを脱いでくれているような気がして。アカネの胸は、淡い期待に躍りだす。


「運命の人なんて、信じられないの。その人が運命であるという証明が、その人にしか分からないから。自己申告でどうとでもなるでしょう? 『少女植物園』を珍しく思って、一目でも見てやろうとして、あわよくば誰かを所有する権利が欲しいだけの人が来るかもしれない。あたし、それがとっても怖くて、だから、金木犀を展示するのが恐ろしかったのよ」

「……だから、私に感謝を?」

「そう。金木犀の香りは好きだから、育てるのは好きなの。でも展示はしたくなくて。次に運命を名乗る人が出てきたら、逃げられないでしょ? 怖かったの。だから、有難う。アカネ」


 カオルはそう言って、分かりやすく口角を持ち上げる。美しい――というより、無邪気なその笑い方は、彼女が誰といるときも見せたことのない表情だった。

 眼前の少女らしい無防備な笑顔に、アカネの胸は強く締め付けられる。

 ああ、愛しい。その感情を今までで一番明確に感じることができた。

 アカネは、目の前にいるこの少女が、カオルが、間違いなく大好きだった。


「君の役に立てて、嬉しい」

「君なんかじゃなくて、名前で呼んでよ」

「……カオル」

「うん、それがいい。有難う、アカネ。他の人は呼び捨てにしたりしないの。貴女だけ、特別よ」

「知ってるよ、そのくらい。突然呼び捨てにされてびっくりしたんだから」

「あら、ごめんなさい。不愉快だった?」

「ううん、そういうわけじゃないけど。……どうして突然、私に声を掛けてきたの? 今まで、挨拶すらしてこなかった癖に」


 最後は、何処か拗ねる声音になってしまった。それでも、その謎を突き止めずにはいられない。ドキドキと音を立てる心臓の音を聞きながら、アカネはカオルに緊張した眼差しを送った。カオルは「あら」と面白そうに口角を上げると、悪戯っぽく自分の唇に指を当てる。

 たった指一本で、その少しの挙動で、アカネは甘い夢を見ているかのような気分に陥った。常に誰かに囲まれている彼女と二人きり。この時間も、会話も、二人だけのものとなる。それは、想像していた光景よりも遥かに素晴らしい現実だった。


「どうしてだと思う?」

「分からないから聞いてるのに」

「ふふ、じゃあ答え。貴女が声を掛けてこなかった理由と、きっと一緒だわ」


 これで分かる? と添えられた言葉に、アカネはぴくりと肩を跳ねさせた。

 彼女は、アカネが胸の内で抱いている感情を知っているのだろうか。知っていてこんな言葉を吐くのであれば、それは、もう。

 アカネの視線には、自ずと期待が乗っていた。カオルはそれを受けて、真相を隠す様に柔らかく微笑んで見せる。物語に登場する、どんなミステリアスな女性も、彼女の魅力には叶わない。アカネは目元を恍惚に染め上げて、ゆっくりとカオルの背中に腕を回した。

 腕の中に納まった体は酷く華奢で、力を込めれば折れてしまいそうな儚さがある。首元に顔を埋めれば、くすぐったがるカオルの笑い声が耳元で聞こえてくる。その距離感に彼女がいることで、自分の腕の中に彼女がいることで、アカネが長らく抱いていた劣等感や黒い激情が、どんなものであったのか欠片も思い出すことができない。

 誰もが羨む憧れのお姫様は、他の誰でもない自分の腕の中に居る。その事実が齎す優越感は、何物にも代え難い。


「ねえ、貴女がこの金木犀を持っていたら、見つかった時に言い逃れできないでしょ? あたしが隠していてあげる」

「でも、そうしたら自作自演を疑われない?」

「平気よ。貴女が罰を受けるより、よっぽどいいもの」

「……そう……有難う」


 慈愛に満ちた声音が落ちてくる。その後、背中を優しく撫でやる少女の柔らかい手の平に、アカネは全身の力を抜いた。

 二人は暫く、誰もいない図書館で抱き合っていた。唇を重ねるよりも大きな意味を伴った秘密を共有して。

 幸せだった。アカネは、今まで手に入れたくて仕方がなかったものを、漸く手に入れた。

 彼女は、誰も触れられない。私だけが、このお姫様に触れることができる。

 私こそが、彼女が選んだ運命だったのだ。

 胸の内を満たす満足感は、金木犀の香りよりも確かである。

アカネは、その感情を噛み締めるように、縋る様に、カオルの華奢な身体を抱き留めていた。

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