翌日、アカネ達はピアノの音色ではなく、強張った看護師の声によって起こされることとなった。

 寝坊常習犯のイチカとミチルもその日ばかりは寝坊を赦されず、寝ぼけ眼のまま看護師に手を引かれて何処かへと連れて行かれる。ワンピースに着替えたアカネは、金木犀の強い香りに満ちた部屋を去る直前、二段ベッドの上段を一瞥する。既に、カオルの姿は無かった。

 少女達は、既定の時間よりも多少早く食堂に集められた。食堂に集合した看護師達は皆、表情を暗くしており、それを見た少女達は騒めく。

 リトルガーデンにおいて、そう言った表情は、大抵あることを意味する。あること、というのは、運命の人を見つけられないまま病状が悪化して、誰かが死んでしまったという訃報のことを指す。

 しかし、少女達はここ最近、そこまで病状を悪化させた者がいないことを知っていた。一体誰が? と。憶測が八割を占めた推理が話し合われたり、それぞれの顔を確認するなど、食堂は朝から異様な気配と騒めきが漂っている。それらを沈めたのは、常に少女達を厳しく監督する婦長の一言だった。


「皆、静かになさい。私から大事なお話がありますからね」


 婦長の注意で、食堂中が一斉に静まり返る。囁き声一つ聞こえなくなった部屋の中で、痺れを切らした誰かが、おずおずと挙手をして口を開いた。


「あのう……誰か、死んじゃったんですか?」

「いいえ、誰も。そうじゃないの。そうじゃないけれど、大事件が起きたの。落ち着いて聞いてちょうだいね」


 婦長は、わざとらしくコホンと咳払いを一つ落とした。それから、どこか冷たい厳しさを目元に漂わせて、言葉を紡ぐ。


「カオルの金木犀の枝が、何者かに折られました。花がついている部分全て」


 その一言に、爆発でも起こったかのように、食堂内は少女達の騒々しい驚愕の声に満ちた。

 一体何故、誰が、いつの間に? 

 そういったことを近隣の友人と話し始める少女達に、婦長が何度も「静かに」と声を荒げる。四回目の忠告で、少女達はある程度の静けさを取り戻した。先ほどのように、完全な沈黙はいつまで経っても訪れなかった。


「昨日の朝には、満開だったそうよ。私も昨日のお昼には温室に行って確認しましたから、犯行は十三時以降。こんなことが起きるなんて、反省文では済みませんよ。何か知っている人は、必ず私達大人の元に来るように。どんな些細な情報でも構いません。何かあれば、必ず教えてください」


 婦長は厳しい口調でそう言い切ると、食堂に並んだ全員を見渡して、軽く睨み付けた。


「誰がしたかは分からないけれど、貴女がしたことは殺人未遂だわ。見つけ次第、相応しい対応を取らせていただきます。覚悟するように」


 そこまで言い切ると、「以上」と鋭い声が会話を切り上げる。同時に、堰を切ったように周囲から溢れだした少女達の声は、一斉に事件の真相を探るような言葉を次々と宙に放り出した。


「私たちが寝ている間にこっそり温室に入ったのかしら?」

「でも、夜は温室に鍵がかかるはずだから……夕方じゃない? それにしたって、大胆だよね。どうしてそんなことをするんだろう」

「私の花も摘まれちゃったらどうしよう……」


 少女達の会話の議題は、暫くこの事件一色に染まることだろう。少女達は、己の顔に浮かべる表情をころころと変えて大声を上げる。怒りに目を釣り上げる者、自分の身を心配する物。多種多様な反応を横目に、アカネは静かに周囲を見渡した。

 この事件の被害者――つまり、中心人物となったカオルは、既に数多の少女達に囲まれ、勢いよく質問やら励ましやらを浴びせられていた。


「カオルさん、大丈夫? 私達がついてるからね、絶対に犯人を捕まえましょう!」

「許せない。カオルさん、あんなに頑張って育ててらしたのに。私、犯人を見つけたら頬を思いきり打ってやるわ!」

「カオルさん、元気出してね。きっと直ぐに代わりの金木犀が来るわ。次は先生たちも目を光らせるもの、もうこんなことにはならないはず。ねえ、カオルさん」


 無秩序に投げられる言葉は、最早数の暴力と言っても過言ではない。カオル自身が口を挟むまでもなく、話題は次々と転がって変わっていった。犯人への怒り、カオルへの心配、手口の推理――誰もがカオルの役に立とうと奮闘する中、その中心にいる彼女だけは、顔色を少しも変えなかった。


「皆、有難う。あたし、大丈夫だから」


 カオルは、いつも通りの微笑みで、そんな強かな言葉を繰り返す。麗しいだけでなく気丈な態度を露わにした彼女を見て、周囲の少女達は目元に涙を滲ませる。そんな光景に、カオルは春の訪れのような柔らかい笑みを浮かべるばかりだ。

 何となく、アカネはそれに肩透かしを食らった気分であった。普段から微笑みを絶やさぬ彼女とて、自分が育てていた金木犀が無残な姿にされれば傷つくと思ったのだが。思い入れという話ではなく、自分の病を治す唯一の手段を妨害されたのである。無様に泣き叫び、誰かに縋る姿を想像していたのに、そこに立つ彼女は、その気配を一切見せない。

 白いままの目元に泣いた形跡はなく、ほんのりと色づいた頬はいつも通りだ。それどころか、いつもより血色が良い気さえする。微塵も心に傷を負っていなそうな彼女の姿は、強かを通り越して、何処か異様さすら感じた。


「カオルさん、大丈夫かしら」

「心配だねぇ……同室の私達がちゃんと元気づけてあげないと。ねえ、アカネ」


 ミチルとイチカの心配そうな言葉に、アカネは簡単に「そうだね」と相槌を打った。二人の視線の先で少女達を宥め回っているカオルからは、金木犀の残り香がした。

 けれど、それよりももっと強い香りを、アカネは知っている。

 ワンピースのポケットに手を入れれば、指先に柔らかい布の感触がする。もう少し力を込めれば、袋の中に硬い枝のようなものが入っていることが伝わってくる。

 昨日、苦労しながらも裁縫を努力して良かった。役に立つと教師たちに太鼓判を押されるだけあって、早速役に立ってくれた。

 ポケットから指を引き抜いて、そのままさり気無く唇に触れる。指先から香ってくる金木犀の甘い香りが、アカネの口元を思わず緩ませた。

 昨日までの苛立ちや焦燥感が嘘のように、晴れやかな気持ちが広がっている。昨日、アカネが完成させた布の袋は、金木犀の折れた枝を収納するのに丁度良い大きさだったのだ。


「でもまあ、金木犀が無くなって早起きの理由もなくなったし、明日からは少しでもお話する時間がとれるんじゃない? そこで慰めればいいと思うよ」

「何だかんだ言っても、アカネは素直じゃないだけでカオルさんが好きよね。でも、本人には意外と伝わりにくいんだから、その時はちゃんと優しい言葉を掛けて差し上げないと駄目よ」


 イチカの警告の言葉に、アカネは「分かった分かった」といい加減な応答をする。本当に分かってるの? と繰り返された言葉は疑念の色を含んでいたが、それは、犯人か否かを疑うものではない。

 アカネは口元に指を当てたまま、小さく頷いた。二人に笑顔を悟られないように顔を背けながら、小さな声で呟く。


「私、カオルのこと、本当は好きだよ」


 その言葉に含まれた本当の意味など、誰も知らない。それを悟れる人物がいれば、アカネはとっくに、今回の事件の犯人として突き出されている頃だろう。

 その一言で、イチカとミチルは安堵したように笑顔を零した。素直な方が可愛い、という見当違いな褒め言葉を聞き流し、アカネは再びカオルに視線を向ける。

 ふとカオルがアカネを見た気がするが、その橙色の瞳は、次の瞬間、彼女に群がる少女の影によって遮られて見えなくなってしまった。

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