システマティック・シャングリラ

姐三

プロローグ 幸せとの邂逅

幸せとの邂逅1

 どす黒い蝿が、天井の暗闇を飛んでいる。腐臭につられたのか、興奮した羽音が耳を掠める。

 王龍凜ワン・ロンリンの内心を支配するのは、純真無垢な殺意であった。

 暗闇の世界で生きてきた龍凜にとって、殺意は普遍的な感情だった。特殊な感情ではなく、常に内心の一角を占める感情だった。

 立てつけの悪いドアから漏れる光の残滓。苦痛を孕んだ女の嬌声。部屋のかび臭さをかき消す香水のきつい匂い。

 一人の世界は静謐だ。純真無垢な殺意が内在する世界では、龍凜は不感症だった。

 暗闇の蝿に手を伸ばす。届かない。当然だ、不可視の蝿を掴むことはできない。

 私は何なのか――ふとした疑問が、獲物を狙う蛇のごとく鎌首をもたげた。

 龍凜は己の存在について思案してみることにした。

 龍凜は十五年の人生をこの九龍城砦の中で生きてきた。いや、この部屋の中で生きてきた。衣服はぼろぼろの汚い布をかぶっているくらいだ。まともな食事にはありつけない。招かれざる客の残飯を浅ましい犬のように食らって空腹を凌いでいる。

 王龍凜という人間を説明するには、隣で眠る半裸の男が不可欠だ。

 この男の名は金礼虎ジン・リーフー。礼虎はチャイニーズ・マフィアのボスであり、この九龍城砦の支配者だ。

 不幸こそが私の人生。疑問が入り込む余地なんてなかった。

 そのせいか、龍凜には正常な感情がいくつか欠如していた。いや、語弊を訂正するとすれば、普遍的な人生を生きる過程で得られるはずの感情が得られていなかった。

 礼虎はいつも純白のスーツを身に纏っている。まるで権力を誇示するかのように。飛沫のような汚れが少しでも付着すると、身体が痣だらけになるまで殴られ蹴られた。だから、龍凜は自分のことよりも礼虎のスーツに繊細な注意を払わなければならなかった。

 改めて思った――私が生きている意味はあるのだろうか、と。

 人間ではない。自由ではない分、動物でもない。言うなれば、王龍凜は人形だ。細い糸で拘束されたマリオネットだ。いくら細い糸であっても、抵抗しなければ断ち切ることはできない。糸で操られていることに気付かなければ、疑問を抱くことさえなく窮屈な舞台の上で踊らされ続けることになる。

 しかし、この瞬間、龍凜は暗闇の中で光を反射する糸を見出した。そして、しがらみによってせき止められていた感情が溢れ出した。

 龍凜は火照った身体を起こした。恒常的な殺意をゆっくりと沸騰させながら。

 礼虎の真っ白なスーツが布の上に丁寧に畳んで載せられている。この男は埃っぽい床の上にそのままスーツを載せることは絶対にしない。

 スーツに触れているところを目撃されたら、きっとひどい暴行を受けることになるだろう。一抹の恐怖が湧き上がったが、死体のようにぐっすり眠っている礼虎を確認して、龍凜はほっと安堵の溜め息を吐いた。

 眠っている時、人間は生と死を同時に享受している。生前と死後が共存している。生と死とはすなわち命の神秘だ。醜い人間も眠ってしまえば美しい。

 スーツの懐を探ると、何かが指先に当たった。五指を這わせてみると、それが棒状の物体であることがわかった。

 龍凜の手中の物体は、礼虎が愛用しているフォールディング・ナイフ――アメリカのコルト社製のCT16であった。

 スーツを汚した時、これを腹部に突き立てられたことがあった。幸い内臓は傷付かなかったが、病院にかかる金があるはずもなく、母が針と糸で縫ってくれた。人形の腹部から飛び出した綿を詰め直して縫うのとなんら変わらなかった。人間の肉体は人形と同じだということを言葉通り痛感した。

 龍凜はナイフに爪をかけて刀身を引き出した。

 きっと私が生きている意味はない。私が死んだとしても涙してくれる者はいない。糸で雁字搦めにされたマリオネットが埃をかぶっていても何も感じないのと同じように。

 礼虎の腹部に跨り、ナイフを高く掲げる。あとは勢いよく振り下ろせばいい。

 部屋の外で獣のように喘ぐ母の声が、高ぶった殺意に拍車をかけた。龍凜は微塵も躊躇しなかった。

 ナイフは直線の軌跡を描き、ちょうど喉頭隆起の上に突き刺さった。

 喉頭隆起は、アダムの林檎とも表現される。エデンの園の禁断の果実を食したアダムがそれを喉に詰まらせたことに由来している。諸説あるが、禁断の果実は林檎であるという説が一般的だ。

 刀身をさらに押し込み、横へと引きずる。噴き出した血液が、龍凜の端整な顔を濡らす。暗闇と同化した血液の鉄の臭いが、鼻腔をくすぐる。

 礼虎は四肢をばたつかせたが、声は発さなかった。というよりは、血液の海に溺れて声を発せなかったのだろう。龍凜は胡桃割り人形のごとく何度も刃を振り下ろした。のたうち回っていた四肢は細かく痙攣し、やがて動作しなくなった。

 龍凜はあくまで機械的に笑った。笑うべきだと思った。

 胸部の中心に手のひらを押し当ててみるが、心臓の鼓動は感じられなかった。己にも同じことをしてみると、ちゃんと心臓は一定のリズムを刻みながら鼓動していた。人間を殺した後だというのに、それは不思議なくらい緩慢であった。

 やはり人形を壊すのと変わらないではないか。人間と人形の差異といえば、せいぜい血液の有無だ。私はこれまでされてきたことを返したのだ。

 龍凜は立ち上がり、光が差し込むドアの方へと歩んでいった。それから、鍵のかかったドアを開けた。

 光に思わず目を細める。眩しさに慣れてきたところで目を見開く。

 母は複数の男の相手をさせられていた。父は興味なさそうにそれを眺めながら、煙草を咥えて麻雀をしていた。龍凜にとってはこれが日常だ。

 ゆらゆらとたゆたう紫煙。がらりと倒れる麻雀牌。金をかき集めて哄笑する父。

 私という不幸を生み出したのは父だ。父さえいなければ私は生まれてこなかった。私なんか生まれてこなければよかったのに。

 父はチャイニーズ・マフィアだ。父がいなければ母は不幸にならなかっただろうし、九龍城砦で生活することにもならなかっただろう。香港島のヴィクトリア・ハーバーで幸せになっていたことだろう。

 激しい殺意が龍凜を突き動かした。思考するまでもなく、身体は父を殺すために最適な動作で進んでいた。父と視線が交錯した瞬間、既にナイフの刀身は心臓に埋められていた。

 ナイフから伝わってくる心臓の鼓動。龍凜は手のひらで父が死にゆくのを感じていた。

 ああ、心臓が停止した。死んだのだ。

 龍凜は口の端を吊り上げた。やはり笑うべきだと思った。

 ねっとりとした血液が頬を撫でる。巨躯が崩れ落ちる。

 チャイニーズ・マフィアたちは快楽をやめた。そして、懐からそれぞれの武器を取り出した。

 龍凜は思考することをやめた。そして、瞼を閉じた。

 人間を殺すのに感情はいらない。私をいたぶってきた人間もきっとなんの感情も抱かなかっただろうから。ものを弄ぶのと同じであっただろうから。

 瞼を開くと、金色の瞳には死屍累々が映った。いや、龍凜は死屍累々の中でもがく母を注視していた。


「龍凜、私を殺して」


 美しい母は力なくそう懇願した。

 礼虎や父に対して生じた殺意とはまた異なる殺意だった。シャーデンフロイデのような殺意であった。

 少なくとも、母は私よりも幸せだった。母はヴィクトリア・ハーバーで幸せな時を享受していた。母は幸せの概念を理解している。私には抽象的な幸せすら理解できない。

 露出した白い肌を赤く染めたい、という衝動に駆られた。


「お母さん、すぐに幸せにしてあげるからね」


 龍凜は汗で水気を含んだ黒髪を持ち上げ、白い喉を一文字に切り裂いた。母は鮮血に彩られながら安らかな表情をしていた。やがて瞳から光が消え失せた。

 龍凜は布切れのような衣服を脱ぎ捨てた。血液の染み込んだそれは重量感があった。床の上に落ちると、それは肉塊のように生々しい音を立てた。

 ひとまずチャイニーズ・マフィアの衣服を頂戴することにした。

 血液で汚れた白のシャツのボタンを留める。黒のネクタイを緩く締める。たびたび礼虎のネクタイを締めさせられたため、初めてでも簡単にできる。スラックスを穿き、ソックスとブーツを履く。スーツを羽織ろうかとも思ったが、椅子にかけられていたトレンチコートを羽織ることにする。

 生まれ変わったような気分だった。実際、龍凜は奴隷から人間へと生まれ変わっていた。

 龍凜は疾駆していた。

 混沌としたパイプとワイヤーの間をくぐり抜ける。ドラッグ中毒者がちらほら横たわっている。ごみを蹴散らして進む。滑りながらも湿った階段を上っていく。

 屋上には礼虎の部下が二人立っていた。彼らは呑気にウイスキーの瓶を呷っていた。龍凜はスピードを遅めることなく、二人の喉を刃でなぞった。

 屋上からは九龍や香港島を臨むことができた。林立する高層ビルの照明は、まるで中庭から見上げた星のようだった。それを塗り潰すかのように、空は明るんできていた。

 だが、龍凜は外界に居場所がないことをわかっていた。この九龍城砦にさえ居場所がないこともわかっていた。


 ――それならいっそのこと飛び下りてしまおう。


 屋上の端から九龍を見下ろす。あと一歩踏み出せば身体は宙を舞う。

 龍凜は立ち竦んだ。過去の憧憬が脳裏に蘇った。

 かつて自由な鳥になりたいと思ったことがある。翼があれば屋上から身を投げても死ぬことはないし、世界中を旅することだってできる。

 マリオネットは糸を切り、自由な鳥になった。龍凜の背中には透明な翼が生えていた。

 龍凜は両腕を大きく広げた。漆黒のトレンチコートが風になびき、翼のごとくはためいた。鴉のようだ、と思った。

 瞑目する。思考を停止させる。脱力する。重心がゆっくりと前方へと移動する。


 ――もし願いが叶うのなら、居場所がほしい。


 龍凜は屋上から飛び下りた。

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