紅色のあなた

坂本治

紅色のあなた

 満月に満たない欠けた月を見上げ、橋の近くの枯れかけた木のそばに立つ。江戸の下町は静まりかえり、ひっそりと夜の音を響かせた。

 ふと視線を下げると、薄手の布をかぶり顔を隠した逢瀬の相手がやって来た。

 暗闇から現れた彼女を白い月光が照らし出すと、その姿を陰りのある黒から、鮮やかな紅色に変えた。近づいてくる彼女がかぶる布が、深い夜の色の中にはっきりと色を差す。それは私の心にも、健康な色を差した。

 安価な甚三じんざもみは庶民向けと言われるけど、下町で愛されるお茶屋の彼女には、その背伸びしない染め物がよく似合った。

「来てくれましたか。次の戦場に出たら、いつ会えるか分かりませんので、是非ともお会いしたかった」

 私がそう告げると彼女は一度目を伏せ、それからこちらを、意思の強そうな瞳で見上げて言う。

「私はあなたを待つことは出来ません。お店に何度も通って頂いたことは感謝しています。しかし、あなたはこの国をお護りする立派なお方です。こんな町の娘にいつまでも構っていてはいけません」

 一息でそう話す彼女の言うことがわからない訳ではなかった。

 けれどこんなにも戦場へ行く前に、誰かに会いたいと思う事もなかった。だから、正直今の自分の振る舞いも、何に突き動かされているものなのかわからなかった。「どうして、また急に……」という言葉を絞り出す。思わぬ申し出による動揺と、笑顔を向けてくれた彼女が離れていく不安に私の心は震えた。

「急ではありません。私を気にかけてお声をかけて下さる度思っていたのです。大義を背負うお方の、刀のおもりになりたくないのです」

「おもりになどなるものか! あなたの存在がどれほど、戦場での私の支えとなるか……。あなたに会いたい一心で、私は敵を斬り生きて帰るのです」

「……私のためでなく、お上のために命を張ってくださいませ……」

 その言葉に私は言いよどんだ。幕府の家臣として、その誇りは何であるか。それは命にかえて将軍を護り抜くことである。命を惜しむことがいけないことだとわかっていたはずなのに、今言われるとどこか心に突き刺さる。

「……私は自分を情けなく思います。

責務を果たす誇りを忘れ、あなたにも今まで私の我儘につき合わせてしまった」

 力ない私の言葉に、彼女も苦しそうな表情をする。

「戦場に送り出すことを、ただの町娘がどうして止められましょう」

「やはり人斬りだから、ついてこられませんか?」

「そうではありません。あなた方は我々の誇りでございます」

 どこか噛み合わぬ言い合いを、決して大きくない声で交わす。虫の羽音がかき消されぬほど互いの声は微かなものだった。

 夏の夜半の静寂が二人を包む中、彼女は「あなたの気持ちに応え待てるほど、私は強くありません……」と弱く呟いた。

 武士である身の上が、彼女との世界を分かつのか。私は苦悶する。

 この女性に限らず、そばにいてやることは生き物にとって重要なことだ。ましてや、帰ってくるかも分からぬ相手を、ただ待っていてくれと言って置いていくのだ。自身の身の上を恨んでは、誇り高く生きよと、育ててくれた恩師らに向ける顔がない。

 そうだ、これは何の情であるのか。うつむく彼女を見ると、私の内から溢れてくる形のない感情がまとわりついては重くなる。

 今まで彼女に会いたいと望んだ思いがどうして起こったものか、途端に分からなくなってしまった。こんな想いで彼女を引き止めてはいけなかったのだ。私は頭もよく回らぬ内にやっと呟いた。

「辛い思いをさせました。もうあなたに帰りを待てとは言いません。しかし決して勘違いなさらないで下さい。あなたは素敵なお人です」

 私が続ける言葉を恐る恐る聞く彼女の目も見られずに「どうか、いつもそばで支え合えるお方と、お幸せになって下さい」と言う。

 ぶしつけな言葉だったと思うが、私という男とあのお嬢さんとでは回る歯車がここまでであったということだ。互いに望むものが一致しなかった、それだけだ。外れてバラバラになってしまうのならば、ここまでで別れてしまった方がいい。

 悲しさとも悔しさとも似つかぬ感情が彼女に向くのを、自分を碌でなしと罵ることで消化した。思えば死臭の漂う戦場を生きる自分にとって、儚すぎる夢であったのだ。

 夢の最後には、彼女のまとう紅色を瞼の裏に貼り付けて夜の帳を去った。

 

 

 薄い雲が覆い、今夜の月の形はわからない。ほの暗い明かりが、茂みへ仰向けに寄りかかる私を照らす。

 遠くで聞こえる鋼を叩く音、石の砕ける音、人の声。駆け抜けた戦場のどこからか打ち込まれた鉛の弾が、私の腹を破り中に重たくとどまっていた。息も絶え絶えに、這いつくばって人の群れから脱する。

 そこまで来ると、呼吸をする以外身体が動かなかった。重い瞼の裏に薄ぼんやりしたあの紅色が浮かぶ。生きねば、戦わねば。

 しかし私にはもう、帰る意味を見いだすことが出来ないのだ。あの夜に告げた言葉が、いくらか私の心残りを軽くした。これでこのまま……と思った時、わずかに照らす光が遮られ、誰かが私を覗き込むのを感じた。力なく開いた視界の向こうに誰かがいる。

 あなたが来てくれたのか。あなたはどうしたら、私のそばにいてくれただろう。いや、私が彼女のそばにいたなら、それも叶ったのかもしれない。

 しかし所詮は、結ばれることもない。水底に沈む私が、その水面に見た明るい光が彼女だった。人を斬っては更に深く沈み、この手があなたに触れることはない。

「生きているか? 気をしっかり持て!」

 救護の隊士が、粉塵よけの頭巾をかぶり私の止血にあたっていた。生成りの布地に、敵のものか仲間のものか、彼のものか、赤黒い染みがある。彼は懸命に処置をする。

 私は生きるのか。私たちはなぜ戦うのか。いや、そんな極端なことではないのだ。何を望んでいたのだろうか。

 雲が流れる。愛が何かなど知らない。名誉と謳われる大義が、私を彼女の待つ世界から引き離す。戦場という冷たい水底に沈んでいく私に、あなたは温かな色を見せてくれた。この思いは何であっただろう。

 あなたにかける言葉の正解をきっと私はわからない。朦朧として夜空を仰いだ。

 ああ、漸く顔を出した月が、今夜もきれいですよ。

                              〈おわり〉

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紅色のあなた 坂本治 @skmt1215

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