歌音の世界

Anchor

第1話 しあわせの橋

 あたしの名前は前原かのん。歌音と書いてかのん。極普通の高校三年生だ。

 両親に名前の由来を聞いても「なんとなく」としか答えないし、親父は文句しか言わないし、母さんはあたしにあたるし、自然と一人で煙草を吸うために外に出るようになった、極普通の女の子だ。

 そんな普通なあたしは今、極普通に自殺しようと思って歩道橋へ向かっている。

 歩道橋から勢いよく走る車にぶつかって死んで、他人に迷惑をかければ両親もちょっとは驚くだろう。そんな普通の理由だ。

 歩道橋が見えてくる。なんだか近代的でちょっとデザインがよくて、周りの景色から浮いている、ぽつんと建つ歩道橋だ。

 もともとこの街は駅前の地方都市で、開発計画が立ち上がった。そのときはこの歩道橋みたいなのがそこらじゅうにできて、遊歩道でつながる構想だったんだ。

 でもその計画は途中で変更。おかげでこの歩道橋だけがぽつんと作られて、取り残された。

 あたしの死に場所としてはちょうどいいじゃん。

 歩道橋のたもとに着いた。エレベーターを開く。おお、無駄に最新の綺麗なエレベーター。

 静かなエレベーターはゆっくりとあたしを橋の上に連れて行く。目の前を走る車の群れに、夕日が光る。綺麗だなー。

 扉が開いた。歩道橋のその上に、あたしは一歩踏み出した。

 おや、橋の上に先客だ。

 全身黒ずくめの、冴えない顔したおっさんだった。

 夕焼けの街を、しんみりと眺めてる。

 なんだろ、変質者? まあ、最近は多いしね。

 とりあえずあたしは歩道橋の真ん中、おっさんの隣へと近づく。変質者だろうとなんだろうと、あたしが死ぬことに変わりないしね。

 何気なく近づいて、ぎょっとした。

「血が――」

 思わず声に出る。おっさんの隣には、先端が血にまみれた木製のバットがあったんだ。

 これは本物だ――。変質者だ。

「ん? ああ、驚かせたかな」

 おっさんがあたしに気づいた。

「気にしないでくれ。変質者じゃない」

 いや、変質者だろ。

 おっさんは笑った。目が細くて、ちょっとお茶目な笑顔だ。

「ま、変質者かどうかは君が決めることなんだが」

 おっさんはものすごく当たり前のことを口にした。この時点であたしの中の変質者レベル検知器はそのメーターを下げた。だって、こんなこというような奴は変質者よりも変わり者だ。

「おっさん何? 殺し屋?」

 おっさんの隣に立つ。こう見えてあたしもいっぱしの不良だ。強気を見せて手すりに背を預ける。

「いや、期待に添えないで申し訳ないが」

 おっさんは困ったような顔で手を顎に当てた。笑ってることには変わりがない。

「一般市民だよ」

 うわ、うそくせえ。

「ちょっと父親を殺してきただけさ」

 さらりと言うなよ。

 くそ、やっぱり殺人鬼じゃねえか。

 あたしは言ってやった。

「へー」

 強がり半分、共感半分。あたしだって親を殺したいと思ったことはある。

「君は?」

 おっさんが聞く。なんだこのおっさん、おしゃべり好きか?

「んー」

 あたしは声を出しながら、煙草に火をつけた。

「自殺しに来た」

 口にくわえて答える。と、おっさんが煙草を横取りした。

「煙草はいかんなあ」

「あんだよ、おっさんも女は吸うなとか言うのか?」

 学校の男どもはそう言う。不良も、そうじゃない奴も。親や教師に言いつけないけど、女は吸うなとか、かっこつけたがる。

「未成年は駄目さ」

 おっさんの答えは正論だった。

「げ、説教くさ」

 まあいいか。煙草はまだあるし、後でも吸える。

「成人したら吸いなさい。せめて人目は気にすること」

 そんな注意でいいのかよ。

「親殺しに言われたかないね」

 あたしは言ってやった。

「はっは、実にその通り」

 おっさんは困ったように笑う。笑えばいいと思ってねえか?

 でもまあ、なんだか憎めない笑顔だ。

 あたしたちは暫く夕焼けを見た。

「おっさん、これからどうすんの?」

 なんとなく、あたしは聞いた。

「自首するさ」

「逃げないの?」

 ちょっと驚きだ。

「父を殺したのは後悔してない。それでも、犯罪に変わりはないからね」

 おっさんは手すりに肘をつくと、困ったような、ちょっと楽しいような、よく分からない顔をして言う。

「社会的制裁くらいは受けてくるさ」

「変な奴」

 変な奴。やっぱり変わり者だ。

「死んじゃえば?」

 あたしの提案。あたしも死ぬし、手軽でいい方法だ。

「ふむ」

 おっさんは手を顎に当てて、でもにやりと笑う。

「クソみたいな人間のために自分の命を捨ててやりたくは、ないな」

 ウインク一つ。

「キモイ」

「つれないなあ」

 おっさんはバットを担いだ。

「さて、私は交番に行こう」

「やっぱ行くんだ」

 あたしは肩を落とした。なんだろう。なんだか分からないけど、力が抜けた気がする。

「行くとも」

 言うとおっさんは背を向けた。

「楽しかったよ。話してくれてありがとう」

 そう言って歩いていくおっさんに、あたしはかける言葉がなかった。

 ただ――。

 帰って母さん殴ってやろう。

 そう思って、死ぬのをやめた。



 ●



 次の日の朝。

 母さんは青あざを作った顔でコーヒーを淹れてくれた。親父は何も言わずに新聞を読んでた。文句も言わなかったけど。

 コーヒーを飲みながら、親父の読む新聞の裏側が目に入る。

【親殺し自首。精神障害の男】

 世の中って、やっぱクソだな。

 あたしは明日もコーヒーを飲もうと思った。

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