第2話 放課後

 満開の桜に対して、僕の心は対照的に心が台風のような渦を作っている。部屋の明かりをつけ、プラネタリウムを消した。仕事で落ち込むことがあると、決まって人工の星を眺めることが日課となっていた。僕にとって星は、水を欲する魚と同じくらいには必要不可欠なものだった。

 時刻は十八時を過ぎている。夕食を作る気にもならず、スーツを着て眼鏡を外し、コンタクトレンズをはめた。髪型も、オールバックに仕上げた。

 向かう先は仕事で疲れた心を癒してくれる憩いの場。大人の世界。大半の人間にとっては、未知の領域。

 会員証を見せ、いつものカウンター席でよろしいですか、と聞かれる。いつもと言われるほどこの店は来ているわけではないのに、すでに常連扱いだ。リップサービスであっても少し苦手だった。

 田舎町にいたとき、人より身体が小さく背も伸び悩んでいて、食堂では頼んでもいないのに大盛りを出されたことがあった。おじさんからすればサービスのつもりでも、学生だった僕にとっては余計なお世話で、身体も心も人と外れた道を歩んでいるとレッテルを貼られたと思い込んだ。あの食堂には二度と足を踏み入れていない。味は美味しかった。

「ギムレットをお願いします。それと、チーズも」

「かしこまりました」

 目の前で作ってくれるバーテンダーの発する音は、新しい風を吹かせた。子供たちのいる学校は、本来僕の領域ではないと思い知らせてくれる。

 チーズをつまんでいると、彼と同じものを、と座る男性。距離が近く、彼の顔を見上げた。目鼻立ちは整い、大きな二重は僕と似ている。もう少し、キリッとした目が好みだけれど。

「こんばんは。一人?」

「こんばんは。一人です。ギムレットを注文しましたけど、結構強いですよ?」

「知ってる。入ってきたときから君を見ていたから」

 背中に手を当て、撫で回す。僕は身を委ねる。ここは、そういう店だ。バーテンダーも客人も、男性しかいない。

 寄り添うように置かれたギムレットを鳴らし、男性は口につける。僕も半分ほど嚥下した。お酒はそれほど強くはないけれど、今日は飲みたい気分だった。

「二杯目はどうする?」

「オーロラで」

「いいね。俺たちにぴったりじゃん」

 なんのことだか分からず溜を作り、空笑いをする。カクテル言葉は『偶然の出会い』。偶然なのは一致したカクテル言葉だ。ただのたまたま。

 ただ、さっきまで部屋で鑑賞していた星たちを懐かしく思っただけだ。お酒ではなく、美しい夜空を浴びながら寝転がりたい。いつか、そんな相手ができるのだろうか。

「これ飲んだらさ、あっち行かない?」

 追加料金を払うと個室に通してもらえる。熱く火照る身体は持て余し、つい頷いてしまった。

 ちびちび飲んでいてあと一口というところで腕を掴まれる。欲に飢えた獣に引きずられ、僕は個室のソファーに投げ出された。

「おっぱい出して」

 ただの甘えたがりか、酔っ払いか。上着を脱ぎ、シャツのボタンを半分ほど開いた。平らで真っ白な肌。魅力があるとは思えないけれど、目の前の野獣には微々たる悩みだった。

「はあ、はあ……はあっ…………」

 気持ちが良くはない。ストレス解消というただの作業だ。

 唾液でべたべたになる胸をどうしよう、と冷静に考え、テーブルの上にタオルが置いてあるのが見えて無事解決。

 もう片方に突入した。全然勃たないし、身体の相性が悪いのかもしれない。

 しばらくなすがままにされていると、個室の扉がノックされる。代わる代わる使われる小部屋は一組三十分と決められていた。タオルで身体を拭き、ボタンを掛ける。

「可愛い身体してるね。またしようよ」

「ちょっと難しいかも……です」

 なんせ、身体の相性が良くない。悪い。両方の胸がひりひりする。独りよがりの性の押しつけは、過去に受けた経験を思い出した。

 お金は相手が払ってくれた。舐めて吸われた分だとして、高いのか安いのか僕には分からない。何かが欠落していた。

 またお待ちしていますと言われ、小さくお辞儀をすると、逃げるようにドアを開けた。階段を上ろうとすると、男からスーツの袖を引っ張られる。

「次はいつ会える? けっこうタイプなんだ」

「ここは、恋人を作ったりするお店ではないです」

「今は店の外だよ」

 おかしそうに男は笑う。何が面白いのか。

「ホテルで飲み直さない?」

「お酒は充分頂いたので」

「ならご飯でもどう? 足りないでしょ?」

 強く出られない性格は、こういうときに災いする。

 お腹が空いているといえば空いている。家に帰って、卵かけご飯が食べたくなった。

 階段を上っている最中に引かれた袖に、僕は地上に上った瞬間、膝から崩れるように転倒してしまった。変な声も出た。誰かが歩いてたが、僕の声のせいで立ち止まって歩幅が大きくなる。

「大丈夫ですか?」

「す、すみません……大丈夫です」

 笑われるかと思ったのに、やけに心配そうに手を差し出してきた。地面に触れた手で相手に触れるのは失礼に当たるため、顔を上げてもう一度大丈夫です、と口にする。

「え?」

 聞き覚えのある声に、僕は首を傾げた。残念なことに、転んだ衝撃でコンタクトレンズが外れてしまったのだ。どこかで聞いたことがあり、身近にいたような、落ち着くバリトンボイス。

「…………もしかして、先生?」

「え?」

 今度は僕が疑問を投げかける声を出した。先生。それは僕のもう一つの表の顔。徐々にぶれた顔がひとつになっていき、アルコールの入った身体が冷たい水を浴びせられたようにひやりとした。

「先生? 教師なの?」

 後ろにいた男は、勝ち誇った声を出す。どうしよう。身元は明かしてはいけない店だ。何をされるのか分からないから。

「や、あの……この人、塾の先生なんですよ」

「そうだったんだ」

「立てます?」

「あり、がと……」

 腕を取ってもらい、立ち上がる。コンタクトレンズが外れて良かったのかもしれない。教え子の顔を見なくて済む。

「あとは俺が駅まで送っていきますから」

「ふーん……じゃあ、またね」

 さっぱりとした別れだ。これを求めていた。一生を誓う人を探しにきたわけじゃない。この店にはもう来られない。

「公園が近くにあります。行こう、先生」

 なんて恥ずかしい。未成年の子供に気を使われるなんて。腕を外そうにも力が強くて、言われるがままに歩くしかなかった。ふらふらになる僕に合わせてか、歩くスピードも遅いし、ますます惨めになる。

「ここに座ってて」

 甲斐甲斐しくベンチに座らせてもらい、教え子はどこかに行った。ピッという音に続いてがこんと二度音がし、彼は僕の手にペットボトルを押しつけた。

「ごめん……一ノ瀬君…………」

「別に」

 怒っているわけではない。呆れているわけでもない。感情がいまいち読めないところがあったが、多分、お互いに戸惑っている。

「最初、誰か分からなかった」

「眼鏡がないから?」

「それもある。普段は眼鏡じゃないんですか?」

「ああいうお店に行くときは、掛けないようにしてる」

「……………………」

「どうしてあの辺うろついてたの? 今、何時だと思ってるの?」

「いきなり教師面かよ」

「ごめん…………」

「いやなんで謝るんだよ。担任なのに」

 一ノ瀬君は小さく笑う。ついでに事情も説明してくれた。

「薫子さんの……俺の義理の母親になるかもしれない人なんだけど、その人の母親が虫垂炎で入院したんだ。親父が何を選んだらいいのか分からないからって、見舞いの品を俺が買ってこいって言うんだよ」

「お母さんはいないの?」

「俺が小学生のときに病気で亡くなってる」

「そうだったんだ……うまくいってるの?」

「薫子さんとは仲は悪くないし、ドラマでよくあるような継母問題なんてもんはない。むしろ世話になりっぱなしだ」

 ペットボトルのふたを開けられなくて、一ノ瀬君は開けてくれた。

 冷たい水が喉を潤し、アルコールが浄化されているかのように、頭がさえていった。

「先生……ボタンちゃんとかけた方がいい」

 シャツのボタンが一段ずつかけ間違えている。恥ずかしい。熱を持った指先ではうまく外すこともできずにしどろもどろになっていると、一ノ瀬君が上まできっちりかけてくれた。

「面目ない……」

「別にいい。先生は……なんであそこに?」

「僕の噂は知ってる?」

「噂? なにそれ」

 どうやら本当に知らないようだ。

「職員室で、あのことばらすぞって言ってた子たちいたでしょ?」

「ああ」

「あの店ね、ただの飲み屋じゃなく、ゲイバーなんだ」

「……………………」

「学校近くにもあって、帰りに寄ったら、深夜にうろついていた生徒に見られてあっという間に広まった」

「さすがに学校の近くの店は行くなよ……」

「もっともだね。最近は学校から遠い店に行くようにしてた。まさか一ノ瀬君に会うとは思わなかったけど」

 缶コーヒーを傾けると、大きな喉仏が大きく動く。切れ目がこちらを向き、僕は目を逸らした。

「……自分を大切にしろよ」

 まさか、高校生から人生のダメ出しを食らうなんて。

 驚いて彼を見ても、もう僕を見ていない。視線の先はモニュメント時計だ。

 公園の横を警察官が通り過ぎた。変な緊張で身を固くしてしまうが、一ノ瀬君は気にする様子はない。彼は高校生に見えないし、気に留まらなかったのだろう。

「送っていきます」

「大丈夫だよ。お水のおかげで酔いも冷めたし、一ノ瀬君こそ遅いし、帰れる?」

「小学生じゃないんだから。なら駅まで行きましょう」

 二十一時を過ぎた街灯の明かりに羽虫が集まり、群れを作る。大きな蛾が近寄ると、当たり前のように交じり行動を共にする。団体行動ができ、種族に合った行動ができるあたり僕よりも優秀すぎる。

 駅までの道のりは、ほとんど人と会わなかった。助かったと思いつつ、それに気づいたのは駅に着いたときだ。わざと人通りの少ない道を選んでくれたのだ。

 アルコールじゃない別のものが、頬から全身に熱を作り出し、全身に送られていく。

「ありがとう。いろいろと」

「どういたしまして」

「あの、お見舞いの品なんだけどね、お茶とかはどうかな?」

「お茶?」

 意外な盲点だったのかもしれない。彼は少し驚いた。

「お花や果物は良くないけど、数種類入ったものならいろんなお茶を味わえるし、重くないから持っていくときにかさばらないと思う」

「あー……それいいかも」

 お礼ってわけじゃないけれど、少しでも参考にしてもらえたら嬉しい。

「お茶にするよ。星宮先生、今日はちゃんとしっかり休んでな」

「一ノ瀬君って……世話好き? もっと怖い人かと思ってた」

「生徒に言うべき言葉じゃないな」

 大人っぽくて、凄むと歌舞伎町とか歩いてるイメージ。歌舞伎町に悪い発言だし、口に出すのはやめておこう。

「明日、寝坊しないようにな」

 生徒らしからぬ言葉であっても、僕は彼に救われたし、身の振り方を考える一日となった。

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