さよならグッピー
百谷シカ
1──ガサガサ
脚立から落ちそうになった私の背中を、強い力が押し戻す。
窓から差し込む夏の日差しを遮って、何冊か本が落ちた。ドサドサという音を聞きながら、焦るよりちゃっかり安堵している自分に気づく。年季の入った絨毯は硬くなっている上に、ガザガザに毛羽立っているのだ。絶対に擦りむくし、痛いに決まっている。
「す、すみません」
支えてくれた誰かに声をかけた。
あたしも、その人も、書架の棚を掴んでバランスを保っていた。
「大丈夫? 暑気中りじゃないよね?」
少し低いけれど、柔らかい声。大人っぽいその声から、あまり関りのない他学年の教員かと思った。
「あ、ただマヌケなだけです」
「下りられる?」
「はい」
「気をつけて」
背中を支えてもらいながら、書架を掴んで俯いたまま足元に全神経を集中させて、たった二段の脚立を下りた。もう一度、謝りながら急いで本を拾った。
埃っぽい図書室だけに、塵がキラリと輝いた。
「素粒子か。またジャンル飛んだ」
呟きに一瞬、手を止める。
この人、あたしの貸出履歴を知っている?
三冊の本を抱いて、もう片方の手でスカートを払いながら立ち上がる。向き直ると見慣れた図書委員の先輩が立っていた。声を聞いたのは初めてだ。
「あの、ありがとうございました」
頬にかかる髪を左右に整えて言うと、先輩は顔を顰めて首をかしげた。まさか小言を食らうのかと思ったそのとき、誰かが勢いよく飛び込んだ水飛沫の音がガラス越しに届いた。図書室の一面はプールと隣接している。
「部活は?」
これは小言だろうか。
どことなく気まずさを覚え、また髪を弄って目を逸らす。言い淀んでいると、先輩の手が本を掴み、脚立の下の段に足をかけて背伸びをして棚に戻した。長身で姿勢がよく、伸ばした腕のラインもきれいだ。ショートボブの髪と落ち着いた雰囲気が、とても大人っぽい。
「あ、ありがとうございます」
「部活。水泳部だよね」
図書室の受付でしか面識のない先輩がなぜそれを知っているかといえば、窓からプールが見えるし、あたしが何度か髪を濡らしたまま利用したからだろう。
「辞めました。受験、がんばらないといけないから」
「え? そうなの。残念」
「え?」
残念とは。
でも、大会に出られるほどの実力もなく二年の夏を迎え、真剣に進路を悩んでいるという事情を話すのは億劫だ。だから切り返した。
「先輩は、お疲れ様です。夏休みなのに」
「まぁ、趣味だから」
見るからに知的な印象の先輩には似合っている。
あたしも趣味で泳ぐ分にはよかった。けれど、泳ぐのが好きなだけでは大学入試の役には立たない。運動部から連想するような、アグレッシブな職種への希望がまるで沸かない。
親はあたしを水泳の選手にしたがった。その夢も終わりだ。
「それより辞めたって。なんで」
「あ……受験、を」
「物理系にいくの?」
「いや、まだ……」
決めていない。
水泳で食べていくという未来を諦めた以外、ふんわりしている。
「ねえ」
急に先輩の手が伸びてきて、指先が頬に触れた。驚いて肩が跳ねる。
「これ、どうしたの?」
「あ……」
進路について掘り下げられるのも困るけれど、同じくらい痛い所に目をつけられてしまった。俯くと先輩の手はすぐに離れた。
「ちゃんと日焼け止め塗ってる?」
「……いや、なんか痛くて」
「痛い? 合わないんだよ、それ。いつから?」
「えっと……」
妙に食いついてきて、正直かなり戸惑う。
でも助けてもらった上に本も選ばずこの場を去ったら、それこそ避けているみたいになってしまう。それも困る。
「夏、前くらい? もともと痒かったんですけど、日焼け止め塗ったら急に赤くなっちゃって」
「病院は?」
「行ったんですけど、薬塗っても、そのあとが痒くて」
「化粧水はどんなの使ってる?」
なんでそんな事までと思いつつ、仕方なく答えた。
「お母さんのを」
「お母さん、なに使ってるの?」
「えっと、薬局で売ってる、ヘチマのやつです」
「ヘチマ?」
なぜか納得いかないような声を出して、先輩はあたしの手をとり、両手で揉むように包んだ。かなり戸惑う。
「戸部さん、乾燥肌だよね。お母さんと肌質が違うんじゃない?」
けれど同時に、至近距離で見てみて初めて、先輩がものすごくきれいな肌をしている事に気づいた。手を引き抜く勇気もなくて、先輩を見あげて答えた。
「そうかもしれません。あの人は、いつもテカテカしてるんで。若い頃はニキビ酷かったって言ってたし……言ってました」
先輩相手と思い出して言い直す。
先輩は丹念にあたしの手を揉みながら観察している。
「うん。スキンケア合ってない上に、塩素でダメージ食らったかな。傷んだところに合わない日焼け止め塗ってトドメをさしたか。戸部さん、もう帰る?」
こうして、夏休みのある日、あたしは薬局に連行された。
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