コーヒー・アンド・ストッキング6
午後九時。
立ち込めた熱気が、電車から降りた纏をうんざりさせた。
いら立ちを抑えながら帰路につく。汗でシャツが身体に張りつく。嫌悪感で肌が粟立つ。空腹が負の感情に拍車をかける。
本来なら、ここまで帰りが遅くなることはない。今日は残業をさせられたのだ。今朝、大幅な遅刻をしたせいだ。
今日は最悪な一日だった。上司の説教は当然だが、何もあそこまで怒ることはなかったと思う。あれはほとんど罵倒だった。まあ、クビにならなかっただけましか。
纏はストッキングを履いた太ももを指先で撫でた。負の感情から、彼女の中である欲求が高まっていった。
「ストッキング、買いに行かないと」
夕食をついでに買って帰ろう。アルコールも必要だ。酒を飲まないとやっていられない。
昼食のフライドチキンの味が忘れられない。やけになってつい買ってしまったが、ダイエットしているからこそ背徳的な美味しさがある。
「あっ」
そういえば、あの金髪の青年はコンビニにいるだろうか。缶コーヒーを買いに来ているだろうか。また出くわしてしまう可能性はゼロではない。
コンビニはいつになく繁盛していた。
駐車場は満車で、新たに乗り入れてくる自動車たちがつかえている。店員が対応しているが、混雑は解消されない。コンビニの前の道路は軽い渋滞になってしまっている。
纏は真っ先に飲み物のショーケースを目指した。ストッキングは後でゆっくり選ぶことにした。
飲み物のショーケースが目前に迫った時だった。
「ああ、びっくりした。ごめんなさい」
棚の角を曲がった男とちょうどぶつかりそうになった。思いがけず例の金髪の青年と鉢合わせになってしまった。
ひとまず纏はミネラルウォーターと缶ビールを両手に取った。
「今日、君と会うのはこれで三度目だよね?」
思わず声をかけてしまった。
金髪の青年は動揺して声を出せないでいた。少しの間があって、彼は小さく頷いた。悪いことをしてしまっただろうか。
纏は金髪の青年を気遣って視線を外した。
「いきなり話しかけたりしてごめんなさい。迷惑だったよね」
「あっ、いや、そんなことないです」
金髪の青年はまた黙り込んでしまった。纏は気まずくなって苦笑を浮かべた。
話しかけてしまった以上、なんとか会話を続けなければ。そうだ、金髪の青年の手中にあるものについて尋ねてみよう。
「ブラックの缶コーヒーが好きなんだ?」
「はい」
「やっぱり。今朝も缶コーヒーを買っていたよね?」
「はい。目覚ましにちょうどいいんです」
「へぇ。ブラックが飲めるなんてなんか渋いね」
会話が続かない。ほとんど見ず知らずの人間に話題を合わせることほど難しいことはない。
すると、今度は金髪の青年の方から口を開いた。
「ストッキング、買わないんですか?」
纏は驚いた。重大な秘密を見透かされているような気がした。
確かに、私はストッキングを買うつもりだった。この金髪の青年は私がストッキングを買うことを知っていた。さすがに三度目は予想できたということだろうか。それとも、私の秘密に近付きつつあるということだろうか。
纏は動揺を隠すように自然に答える。
「ああ、買うよ」
自然を装うと、逆に不自然になってしまった。纏はふっと溜め息を吐いて肩の力を抜いた。
「やっぱり君も私に気付いていたんだね。見苦しいところを目撃されてしまったな」
「見苦しいところ?」
「ほら、今朝のこと」
「ああ」
金髪の青年と並行しながら、纏はストッキングが置いてある棚の前で立ち止まった。
黒色のストッキングは少し飽きてしまった。肌色のストッキングも素朴でいい。とても魅力的とは言えない脚を控えめな美脚に引き立ててくれる。
「寝坊はするし、二日酔いはするし、ストッキングはテーブルの角に引っかかって破れるし、オフィスでは上司に浴びるほど怒られるし、残業はさせられるし、今日は最悪の一日だったわ」
口を衝いて勝手に出てきたのは愚痴だった。纏ははっとした。
「ああ、ごめんなさい。愚痴なんかこぼすつもりはなかったのに」
「今日は災難でしたね」
「ありがとう。大学生?」
「はい」
「ってことは、夏休みかぁ。いいなぁ」
纏は大学時代のことを思い出していた。
サークルには入らなかった。友達も恋人もできなかった。アルバイトは、ショッピングモールのレストランでウェイトレスをしていた。家に帰ると、疲弊した身体を休めるために極力早く眠った。休日もアルバイトに勤しみ、空虚を紛らわせた。
家には母しかいなかった。纏が中学校を卒業する頃、両親は離婚した。結局、彼女は母に引き取られた。
父は決して優しくはなかったが、社会に忠実な人間だった。母とはよく喧嘩していたが、少なくとも悪い人間ではなかった。離婚は些細なことが積み重なった結果だった。
ただ、父は家庭と仕事の重量を測り間違えていたのだ。父の中の天秤は仕事の方に傾いていた。休日も仕事に追われている父は、まるで社会の奴隷だった。
父のような人間にはなりたくないと思っていたが、私も父と同じ道を辿りつつある。社会の奴隷になりつつある。もしかしたら、もうなってしまっているのかもしれない。
纏はレジに並び、ぼーっと何か思案している金髪の青年に手招きした。
フライドチキンが視界に入る。
纏は眉をひそめた。
レジの横にフライドチキンのショーケースを設置するのはずるい。あまりにも汚い戦略だ。ダイエットの敵は会計のたびに現れる。
運の悪いことに、夕食を買い忘れてしまった。今さらレジの列に並び直すのも面倒くさい。フライドチキンを夕食にするしかないではないか。
纏はまともな夕食を諦めることにした。
ついでにこの金髪の青年にもフライドチキンを買ってあげることにしよう。夜食としてなら喜んでくれるかもしれない。
纏は振り返った。
「ねぇ、お腹は空いている?」
「はい?」
「夕食は食べた?」
「えっと、一応食べましたけど、二時間くらい前のことです」
「ふーん、わかった」
会計の順番が回ってきて、纏はショーケースの中を指差した。
「フライドチキンを二つお願いします」
結局、またジャンクフードの誘惑に負けてしまった。バランスのいい食事を心がけたいが、怠惰な生活は一人暮らしのさがだ。
ぎりぎり五百円を超えてしまった。五百円玉と小銭で代金を支払った纏は、先にコンビニを出ることにした。間もなくして、金髪の青年が追いかけてきた。
多分、普通に渡そうとしても、遠慮して受け取ってくれないだろう。怪しまれる可能性もある。何せ今日初めて会話を交わす関係なのだから。
「私、ダイエット中なんだ。でも、意志が弱いからどうしてもアルコールとかスイーツとかジャンクフードとかの誘惑に負けちゃうんだよね。だから、一つは君にあげる」
恋愛映画の登場人物のような気障な台詞しか思いつかなかった。纏ははにかんでフライドチキンを差し出した。
「えっ、そんな、悪いですよ」
「いいから。愚痴に付き合ってくれたお礼。私のダイエットに協力すると思ってもらってくれない?」
「はぁ。本当にいいんですか?」
「うん。どうぞ」
「ありがとうございます」
金髪の青年は最後まで渋っていたが、フライドチキンが入った紙袋を突き出すとようやく受け取ってくれた。
纏は踵を返して手を振った。
「じゃあね。また会えるといいね」
「そうですね」
格好つけすぎだっただろうか。我ながら柄にもないことをしてしまった。
身体が熱を帯びる。羞恥とは相反的に、足取りは軽やかだ。
明日は休日。特に予定はない。予定がないからこそうきうきするのだ。何があるかわからない人生の方が楽しいに決まっている。だから、あえて予定は立てない。
言いわけがましく孤独を誤魔化しつつ、纏は閑寂なアパートのドアノブに手をかけた。
隣の部屋に住んでいる同年代のサラリーマンはまだ帰ってきていない。彼は週末になると必ずと断言してもいいくらい飲みに行く。そして、べろんべろんに酔って、大声で歌いながら帰ってくる。深夜、部屋を間違われてドアノブを壊されたことがある。
纏は現実に引き戻されたような気分でドアノブを回した。
「ただいま」
無論、「お帰り」と返ってくることはない。
照明をつけると、ごみで散らかった部屋が出迎えてくれる。ごみから漂う異臭が鼻を衝く。足の踏み場がない。
纏はごみを踏まないように注意してベッドに座った。
明日、少し掃除しよう。どうせ来客はないのだ、ゆっくりやればいい。
残業の後でひどく空腹だ。本当はもっと食べたいところだが、夕食はフライドチキンしかない。ダイエットしているのだと言い聞かせて耐えるしかない。
キッチンに移動し、ビニール袋の缶ビールを冷蔵庫に入れる。フライドチキンの紙袋を開ける。口内が唾液で潤う。勢いよく齧りつくと、衣と鶏肉から油が染み出す。唾液と油が舌の上で絡み合う。ミネラルウォーターをコップに注ぎ、こってりした口内の油を一度洗い流す。至福の余韻に浸り、もう一口齧る。
あっという間にフライドチキンはなくなってしまった。今ならいくらでも食べられそうだ。もしフライドチキンがもう一つあったら、食欲を抑えきれなかっただろう。
纏はシャワーで汗を流すことにした。
今日は通り雨に降られたのかと勘違いされるくらい汗をかいた。汗で湿ったシャツの臭いはひどいものだった。鼻が曲がりそうなくらい酸っぱい臭いだった。ストッキングは裏返らないように丁寧に脱ぎ、ベッドの端にそっとかけた。
シャワーを浴びると、身体の不快なべたつきは綺麗さっぱり取れた。タオルで黒髪を拭き、自然に乾くのを待ちつつ冷蔵庫で冷やしておいた缶ビールを仰ぐ。やはり風呂上がりのビールは格別だ。
缶の冷たい感触で、例の金髪の青年のことが思い浮かんだ。
――どうしてあの金髪の青年は缶コーヒーを必要としているのだろうか。
金髪の青年は目覚ましにちょうどいいと言っていた。勉強のためか。いや、夏休みに勉強する生真面目な大学生は少ないだろう。偏見かもしれないが、とても金髪が勉強しているとは思えない。頻繁にコンビニにいるということは、恐らくアルバイトのためでもない。彼は何をしているのだろう。
缶ビールが空になる。酔いが回り、顔が熱くなってくる。
あの金髪の青年にも日常がある。缶コーヒーの日常。私にも日常がある。ストッキングの日常。誰しもが日常という名の人生を生きている。繰り返しの一日を生きている。これが普通なのだと思う。
私は普通の人生を生きている。よくも悪くも普通。意味があり、意味がない日常。孤独な人生。塵も積もれば山となる――確かに、意味があれば山となるだろう。だが、意味がなければ塵は塵のままだ。この部屋に溜まったごみのように。では、生きている意味とはなんだろう。
纏は憂鬱な心持ちでベッドに座った。
このまま孤独に生きて、孤独に死んでいくのだろうか。もしそうだとしたら、生きている意味なんてない。
もうすぐ夏が終わる。蝉たちの命が尽きて、夏のざわめきが終わる。交尾できなかった蝉は、仰向けになって悲哀を呈する。
夏の死体が私の未来――そんな想像が電流のように脳内を駆け巡り、おぞましくなった。
涙が滲む。視界が白くぼやける。
高校時代のあの出来事さえなければ、私の人生は変わっていたのかもしれない。いや、あの出来事のせいで私の人生は変わってしまった。唯一の親友を失わなければ、きっと孤独な人生にはならなかった。自業自得だ。
纏は汗の染み込んだストッキングをゆっくりと履いた。
結局、私は同じ一日を繰り返している。昨日と違うのは、金髪の青年との出会い。彼との出会いも、いずれは日常の一部となる。
纏はいつものように涙を流した。
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