コーヒー・アンド・ストッキング3
午前十時。
心臓の鼓動の音。スマートフォンのアラームで目が覚める。昨日と同じ一日の始まりだ。
相変わらず眠りは浅く、寝起きが悪い。まだ眠気が覚めない。カフェインを摂取しなければならない。
洗面台で顔を洗う。キッチンの冷蔵庫を開ける。
凜の手は冷蔵庫の中を彷徨った。
缶コーヒーがない。買い溜めしておいたはずだが、冷蔵庫の中に缶コーヒーは見当たらない。恐らく父が会社に持っていってしまったのだろう。
凜は落胆した。
まあ、いい。父のおかげで生きていられるのだ、缶コーヒーの一本くらい譲っても罰は当たらないだろう。
だが、目覚ましの缶コーヒーは必要だ。あれがないと執筆が捗らない。ついでに何か甘いお菓子でも買ってくるとしよう。
凜はわずかな期待に胸を膨らませながら着替えを済ませた。ワックスで金髪を整えて、念のため鍵をかけて家を出た。
日差しがきつい。気分が悪くなるくらい暑い。もうすぐ夏が終わるというのに、微塵も秋の来訪を感じ取ることができない。深夜の爽涼がまるで嘘のようだ。
蝉がやかましく鳴いている。蝉が鳴き出せば夏が始まり、蝉が鳴き止めば夏が終わる。夏は蝉と共に生まれて蝉と共に死んでいく。
発声器官があるのは雄の蝉のみだ。雄の蝉は鳴いて雌の蝉に存在を知らせる。子孫を残すために交尾し、やがて仰向けになって力尽きる。
生物は子孫を残すために生きている。無論、人間も例外ではない。それにもかかわらず、俺はどうして異性に興味がないのだろう。いや、興味がないというのは語弊がある。
凜は女という生き物が苦手だった。
女の中には虚偽がある。容姿を装飾し、周囲との関係を保つために嘘をつく。孤独にならないように死に物狂いで他人を騙し、己の感情を殺す。
凜には女の中に潜む醜悪の片鱗が手に取るようにわかる。誰よりも美しくありたいという女の本能はあまりにも見え透いている。
「結婚か」
凜はぽつりと呟いた。
結婚する気はさらさらない。そもそも友達も恋人もできたことがないのに、結婚する相手がどこにいるというのだろう。小説家なんて儲かる職業ではない。家族を養うにはまともに働かなければならない。
だが、働くために生きることは凜の自尊心が許さなかった。
ソクラテスの名言に「生きるために食べよ、食べるために生きるな」というものがある。生きることを前提として人生を模索し続けろ――凜はこう解釈している。生きるために働く。働くために生きる。彼は前者が正しいと思っている。
もし大学を卒業するまでに小説家になれなければ、全てを捨てて旅に出るつもりだ。金ならある。これまで貯めてきた金が十万円、デスクの引き出しに隠してある。生きる希望が見つからなければ野垂れ死んだって構わない。
ぼーっとくだらないことを考えながら、冷房の効いたコンビニの中に足を踏み入れる。
まだ昼ではないせいか、客は少なかった。深夜ほどではないものの、いつもの賑わいはなかった。
雑誌の立ち読みをしている男。どの時間帯に行っても、大抵は誰かが立ち読みをしている。この世界には想像しているよりも暇な人間が多いのかもしれない。
コーヒーメーカーでアイスコーヒーを淹れている作業着の男。その隣には上司らしき男。仕事の途中で休憩しているのだろう。この暑い中、外で働いている人間には脱帽する。
飲み物のショーケースの前には、私服の大学生らしき男。歳は同じくらいだろうか。もしかしたら、同じ大学かもしれない。見覚えはないが。
炭酸飲料を選んだ男と入れ替わり、凜は迷うことなく缶コーヒーを掴んだ。
お菓子が置いてある棚には、ラフな格好の女。同じく大学生だろう。カロリーの低いお菓子を選んでいる最中なのか、パッケージの裏を確認しては棚に戻すという作業を繰り返している。そんなにカロリーが気になるのなら買わなければいいのに、と言いたくなったが、そっと胸の中にしまっておくことにする。
すると、自動ドアが開いて新たな客の入店を知らせた。
忙しいハイヒールの足音。店員はびっくりして「いらっしゃいませ」を言い忘れている。ハイヒールの足音の主はOL。汗をかいた額には黒髪が張りついている。
OLは息を切らせながら黒色のストッキングを引っ掴んだ。それから、呆然と立ち竦んでいる凜の横を通り過ぎて、飲み物のショーケースからミネラルウォーターを取った。
再び凜の横を通り過ぎて足早にレジへと向かうOL。焦ったハイヒールの足音が、彼女の存在をこれでもかとばかりに主張している。
このコンビニの中でOLは注目の的となっていた。
「フライドチキンを一つお願いします」
OLは持っていった二つの商品とフライドチキンの会計を済ませて、蚊の鳴くような小声で店員に話しかけた。
ぎりぎり聞き取れた内容はこうだ。
「あの、お手洗いをお借りしてもよろしいですか?」
「はい、どうぞ」
OLは凜を一瞥してばつが悪そうにトイレへと駆け込んでいった。
じろじろ見つめて失礼だっただろうか。記憶が正しければ、あのOLは昨日もとい今日の午前二時くらいにこのコンビニで見かけた。黒色のストッキングを買っていったOLに間違いない。
凜は弁当を選ぶふりをしてOLがトイレから出てくるのを待った。なんとなくあのOLに興味が湧いた。
あんなに慌てていたということは、寝過ごしてしまったのだろうか。恐らくそうだろう。午前十時を過ぎて出社するOLなんていない。それにしても、何故またストッキングを買いに来たのだろうか。
五分後、OLは先ほどよりも幾分か落ち着いた様子でトイレから出てきた。そして、凜を横目に軽快な足音を立ててコンビニから立ち去った。
OLは早速ストッキングを履いていた。額の汗は拭かれており、乱れた黒髪も整えられていた。
なるほど、合点がいった。なんらかの理由でストッキングが破れてしまったからここまで買いに来たのだ。
やはりこれからオフィスに出社するのだろう。大胆な遅刻だ。上司から大目玉を食らうであろうことは言うまでもない。
あのOLが気の毒に思えてきた。もし凜が彼女の立場なら、ばっくれて家に帰っているところだ。
缶コーヒーを買い溜めしておこうかとも思ったが、どうせなら家とコンビニを行き来して一本ずつ買っていくのも面白そうだ。コンビニの中にいる人間はやはり興味深い。今夜、また来よう。
お菓子を選んでいる女の隣から無難なチョコレートを抜き取る。レジで代金を支払い、商品をビニール袋に入れてもらう。ごみになるから普段はビニール袋をもらわないのだが、チョコレートのことを考慮するとどうしても必要になる。ただでさえ外は暑いのだ、火照った手の温度でチョコレートが溶けてしまう。
自動ドアが開くと、むせ返るような熱風が全身を包み込む。突き刺すような日差しに思わずを目を細める。
「俺も働かないとな」
凜は猫背を伸ばして太陽の下を歩き出した。
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