コーヒー・アンド・ストッキング4

 午前十時。

 カーテンの隙間から差し込む光で目が覚める。やけに明るい。いつもと違う朝だ。

 スマートフォンで時間を目の当たりにした途端、纏はベッドから飛び起きた。どうやらアラームをセットし忘れていたみたいだ。

 最悪だ。二日酔いで頭痛はするし、涙で目元が腫れぼったくなっている。ここまで大幅に寝過ごしてしまったのは初めてだ。

 カーペットの上に脱ぎ捨てられたシャツとタイトスカートに着替える。わざわざ深夜にコンビニで買ったストッキングを履き、洗面台で顔を洗う。化粧で赤く腫れた目元を取り繕い、サンドイッチを頬張りながらミネラルウォーターで胃の中に流し込む。

 急いで頭痛薬を探そうとしたところで、嫌な音がした。鳥肌が立つくらい甘美な音。テーブルの角に引っかかったストッキングが裂ける音だった。

 なんて運が悪いのだろう。まさか出かける直前に破れてしまうとは。罰が当たるようなことはしていない。誰かに恨まれるようなことをした覚えもない。もう嫌だ。

 纏はストッキングを脱ぎ、ミネラルウォーターで頭痛薬を飲み込んだ。


「またストッキングを買いに行かないと」


 纏はストッキングにこだわっていた。

 ストッキングを履いていないと、なんだかそわそわして落ち着かない。全裸でいるような羞恥に苛まれるのだ。

 遅刻することに変わりはない。コンビニでストッキングを買ってからオフィスに向かうとしよう。

 ドアを開けると、待ち伏せしていた夏が襲ってきた。

 日焼け止めクリームを塗り忘れた。紫外線の雨に肌をさらすことはしたくないが、日傘を差すのも面倒だ。

 ドアに鍵をかけて、纏は思い切って太陽の下に飛び出した。

 ハイヒールでは走りにくい。耳障りな蝉の声がいらいらする。サウナの中にいるかのような暑さで額に汗が滲む。振り乱した黒髪が汗で額にくっつく。

 鬱陶しい黒髪を無視して走っていると、黒い視界にようやくコンビニが映った。

 コンビニの中は天国だった。冷風で全身の毛穴が引き締まるのが感じ取れた。

 汗が引くまでここで涼みたいが、ハイヒールの足音のせいで注目の的だ。あまり長居はしたくない。

 黒色のストッキングを引っ掴み、からからの喉を潤すためにミネラルウォーターが置いてあるショーケースを目指す。見覚えのある金髪の青年に白い目で見つめられている。居心地が悪い。

 レジで会計をしようとして、ふと蠱惑的なショーケースに見入ってしまった。纏は衝動的にショーケースの中を指差した。


「フライドチキンを一つお願いします」


 やけになっていたこともあり、纏はダイエットしていることを忘れてフライドチキンを注文してしまった。

 しかし、フライドチキンの食欲をそそる匂いを嗅ぐと、背徳はすぐに霧散してしまった。

 とりあえず、ストッキングを履いておきたい。ついでに化粧と髪も直しておきたい。

 これ以上他の客の視線を集めないように、囁くような小声で店員に声をかける。


「あの、お手洗いをお借りしてもよろしいですか?」


「はい、どうぞ」


 纏が振り返ると、あの金髪の青年は魔法にでもかけられたかのように飲み物のショーケースの前で硬直していた。

 奇異の視線が痛い。羞恥が込み上げてくる。

 纏はばつが悪くなり、金髪の青年を一瞥してトイレに駆け込んだ。鏡に映った表情はひどいものだった。目の下には隈ができており、たった一日で五歳くらいは老けてしまっていた。

 それにしても、あの金髪の青年は今日の午前二時にこのコンビニで見かけた。確か、缶コーヒーを持って後ろに並んでいた。先ほども缶コーヒーを手にしていた。これまで意識していなかったが、彼は缶コーヒーを買うためにこのコンビニに通っているのかもしれない。ただ気付かなかっただけなのかもしれない。

 なんとなく同じ人間に出会えたような気がした。

 きっとおかしなOLだと思われている。一日に二度もストッキングを買いに来るなんて異常だ。今夜で三度目になる。今夜は出くわさなければいいのだが。

 便蓋の上に腰かける。ハイヒールを脱ぎ、ストッキングを片方ずつ脚に通していく。

 これで全裸でなくなったと思うと、少しは安心できた。冷房のおかげで汗も乾いてきた。

 額に残った水分をハンカチで拭き取り、汗で流れてしまった化粧を軽く直す。櫛でほつれた黒髪を解く。最後に手を洗い、ぎこちなく笑顔を形作る。心なしか、少し若返ったような気がする。

 纏は毅然とした足取りでトイレを離れた。金髪の青年を横目に通り過ぎ、燃え盛る地獄のような夏の中に躍り出た。

 これから待ち受けている上司の説教にげんなりしながらも、どこか胸が弾むようであった。心の片隅で誰かと踊っているような気分であった。

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