天使が奪い去る

茜あゆむ

第一話


 天使が来た。

 玄関のドアをこつこつと叩き、真っ白な肌、真っ白なスーツを着て、天使が我が家に死を告げに来た。

 あれは母が亡くなる前日のことで、かれこれ二十年ほど前のことになる。涼しげな風の吹く、初夏の午後のことだった。

 先触れもなくやってきた彼女は、出し抜けに、

「響子さん、あなたは明日、天に召されます。今日はその説明に参りました」

 と言った。それが天使たちのお決まりの台詞だったのだ。

 天使はぽかんと口を開けていた私に向かって、穏やかに笑いかけた。私は母の影に隠れ、天使の異様な姿に怯えていた。まるで生まれた時のままの姿とでも言うような、身体にぴたりと合ったスーツと、子ども時代など少しも思わせない彼女の身のこなしが、私を尻込みさせた。女性としても大柄な天使の姿は、当時小学生だった私には、石膏で出来た石像に見えたのだった。

 天使は母に、中へ入ってもいいか、と尋ねた。

 呆然としていた母は、その言葉にはっとして、しどろもどろになりながら、天使をリビングへ招き入れる。

 天使の足取りは確かで、石畳を歩く、こつこつという足音が聞こえてきそうだった。

 母は、どうぞと椅子を指し示す。

 二人は同時に席に着いた。

「大切なことなので繰り返させていただきます。響子さん、あなたは明日の未明、天に召されることに確定いたしました」

 天使の言葉は不思議な力を持っていた。彼女が口にした言葉は、固く透明な壁になって、母を押さえ込む。あるいは、それは錯覚なのかもしれないけれど、無機質な天使の所作はそう思わせるのに充分な力を持っていた。

「何か、温かい飲み物をいただけますか?」

 と天使は尋ねた。それは少し傲慢に聞こえたかもしれない。けれど、天使が気遣ったのは、むしろ母に対してだった。天使の振る舞いは、動揺しきった母よりも、この家の主らしくなっていく。

 母は何も言わず、私をじっと見つめた。

 私は紅茶を淹れてくるね、と席を立ち、白く石のように固まった母の指に手を重ねた。母の手は雪を押し固めたように白く、そして美しかった。

 私はキッチンに立ち、お湯が沸くのを待つ間、そっと二人の様子を覗き見ていた。

 二人はテーブルに向かい合って座り、いくつもの書類の束を広げている。

 天使は淡々とした様子で資料の説明をし、母はそれを俯き加減に覗きこみ、はい、はいと相槌を打つ。天使のバッグからはいくらでも書類が出てきて、テーブルを埋め尽くした。母はその一つ一つに目を通し、ある時にはそれを受け流し、ある時には質問をした。

 資料に目を通すたび、母の肌が青ざめていく。

 私はそれを見ていて、嫌な胸の高鳴りと足の震えを感じた。胸の奥で、じーんと嫌な感じのもやもやが広がり、そこから身体が空っぽになっていくように感じる。

「どうぞ、紅茶です。熱いので、お気を付けて」

 紅茶を差し出す手が震え、カップがカチャカチャと音を立てた。

 カップとソーサーは母のお気に入りだった。美しい網目模様の中心、美しい陶器の光沢の中で、紅い水が宝石のように光っていた。

「この香りはアールグレイですね。一番の好みです」

 天使はカップを取ると、何の抵抗もなく、紅茶を口に含んだ。湯気が天使の長いまつげにかかっても、彼女は少しも気にかけなかった。

「再度、確認させていただきますが、こちらが閻魔帳の写し、こちらが罪人状で、これが免罪の証明になります。ご確認いただけましたら、署名と捺印をお願いします」

 天使はそう言って、テーブルの上の資料を母の方へ寄越した。

 青白い顔をしていた母は、顔を上げ、

「夫が帰宅するまで、待ってもらうことはできませんか?」

 と言った。けれど、天使は首を振る。

「それはできません。確かに、響子さんと学さんは生涯を誓い合った伴侶ですが、こればかりは、響子さん自身の問題ですので」

 母は続けて、言う。

「この子が一人になってしまいます」

「……ええ、その通りです」

 感情を避けた言い回しだった。

「署名と捺印をお願いします」

 それでも、母は食い下がる。

「私が死んだあと、二人はどうなってしまうんですか?」

「……」

 天使は答えない。

 母の熱のこもった声がむなしく響く。

「……教えてください」

「それは、お二人が乗り越えるべきことです。私から申し上げることはありません」

 残酷なほど冷静な言葉だった。けれど、母は取り乱すことなく、一呼吸、間をおいて、

「少し、時間をいただけますか?」

 と天使に尋ねた。彼女は黙って頷き、

「外で待たせていただきます」

 と席を立った。

 母は天使がいなくなった途端、顔を覆い、涙を流した。彼女のかなしみと嗚咽が、白い粒になってこぼれ落ちる。

 記憶の中にある母は、小柄でとてもかわいらしい容姿をしていた。いつも髪をショートカットにしていて、その活発な印象が彼女を若く見せていた。母はころころと笑い、かなしい時には必ず背中を丸め、身体を小さくして泣いた。

 春先になると、庭にはスノードロップの花が咲き、その小さく可憐な花を春風が揺らす。鈴のように揺れるスノードロップを見て、母はよく、音が聞こえるね、と言った。

 私にその音は聞こえなかったけれど、母の指から涙がこぼれる時、きっと母が言っていたのは、この音なのだろうと思った。

「お母さん」

 私は母に近付いて、その背中を撫で下ろした。母の背中は私が思っていたよりも小さく、痩せていた。そこには私の憧れていた花のような母はおらず、石のように萎びて固くなった、人の身体だけがあった。

「大丈夫」

 私が母の身体の変わりように立ち尽くしていると、母は涙を拭い、私を見た。

「ありがとう、サラ。もう平気だからね」

 母はそう言うと、私を抱きしめた。

 私を包むあたたかさに、私は戸惑い、臆病な両手はゆっくりとしか動かなかった。母の抱擁の下から、母を抱きしめ返そうとして持ち上げた腕は、弱々しく母の背中を掴んだ。

「私がいなくなっても、大丈夫だね?」

 私は小さく、うん、と答えた。

「きっと辛い思いをさせると思う。ごめんね」

 その時、私は母の言葉の本当の意味を分かっていなかったと思う。多分、一番辛かったのは母だ。自分が死んでしまって、かなしむのは誰かといえば、自分が一番愛する人たちなのだ。彼らが深いかなしみに落ちていく姿を見て、辛くない訳がない。彼らがきっとかなしむことが分かっているのに、何もしてあげられない辛さは、自分が死ぬことよりもショックだっただろう。

 その気持ちを思うだけで、私は暗い気持ちになる。

 母が天に召されて以来、沢山のメディアで、天使に死を宣告された人々を見てきた。自分の死を告げられて、怒り狂う人、嘆き悲しむ人、驚き呆れる人。その反応は本当に千差万別だった。けれど、その誰もに共通するのは、残された人たちへの慈しみだった。

 天使から宣告を受けるのは死の前日で、詳しい時刻は伏せられたまま伝えられる。人々に残されるのは、たった一日。それは、愛する人の死を受け止めるには短すぎる。天使の訪問を受けた人々は、日々と変わらない最期を送るのが大抵だ。

 噛みしめるように、変わらない日常を過ごし、静かにその日常へ幕を下ろす。やっぱりそれは、人の愛の形なのだと私は思う。

 共に過ごした日々を、かなしみで塗り潰してしまわないように、私たちが共にいた時間を残して、母たちは旅立っていったのだから。

 そのやさしさを思う時、やっぱり私は暗いかなしみに囚われてしまう。



 ある日、母が天使として我が家へ帰ってきた。母は父に宣託を授けると、他の天使と同様に天へと帰っていった。

 父は母の時とは打って変わって、嬉々として死んでいった。

 天使の到来によって、まるで死刑囚のようだと言われていた私たちの生活は、これでまた変わった。

 天使が私たちの元へ訪れる意味が変わってしまったからだ。

 愛する人たちとの一度限りの再会を約束された私たちは、死を待ち望むようになってしまった。

 私たちの人生は、思い出を映すガラス玉だ。

 私は、父の宣託に来た母に尋ねた。

「私の時も、お母さんが来てくれるの?」

「サラが、そうしたいなら」

 母は昔と変わらない笑顔で、そう答えた。

 正直、うれしいと思う私がいた。けれど、母との再会を待ち望むことを怖がる私もいて、深い落とし穴にはまったような気分だった。身動きが取れず、一寸先も見えないくらやみで、私は一人ぼっちだ。

 父と母がにこやかに死後の生活について語り、淡々と書類を片付けていく。父は、母にすっかりのぼせて、私が産まれる前の思い出を語ってみせたりする。天使である母は話を聞きながら、黙って頷いているだけだったけれど、その様子はどこか異様で、私を竦ませる。

 二人は、私のことをまったく忘れてしまったみたいだった。恐らく、視界に入っていないのだろう。

 今、彼らがいるのは、何もかもがきらめく、二人だけの思い出の世界で、私はそこに突然現れる、かわいらしい赤ん坊の影なのだ。

 私は父と母を恨んだ。死に行く人生の最後に、まったく顧みられないかなしみは、憎しみへと変わってしまった。

 恐らく、変なのは私の方なのだろう。人生の大半を過ごした誰かが、自分の死の間際に訪ねてきてくれることが、どれほどうれしいことか。私にだって想像できない訳じゃない。けれど、彼らの側には、はっきりと自覚できないもやがかかっているように思えた。

 そのもやは、私たちの頭を包み込んで、何かを忘れさせようとしている。そして、それはすごく大事なことの気がした。

 結局、父は母に迎えられて、満足そうに逝った。父はすっかり私のことを忘れていたようだけれど、それよりもショックだったのは、母の死をあれほど悼んでいた父が、あっさりと死を受け入れたことだった。


 父の死の二年後、入籍したばかりの夫の元へ、天使がやってきた。

 彼の相手は、幼なじみの女の子だった。仲の良さそうな様子を見て、嫉妬しなかったといえば嘘になるけれど、彼女が夫の天使になることについては、充分納得できた。彼にとって、幼なじみの彼女が人生で一番、時間を共にした相手なのだろう。

 けれど、やっぱり私の感じた違和感は拭えなかった。うれしそうに笑顔で天使を迎える夫を見て、私は自分たちの結婚が否定された気分だった。もちろん、彼にそんなつもりなんてないのだろう。

 でも、楽しそうに死後の話をする彼に、私のかなしみは理解できないのだ、と考えることはひどく孤独だった。

 このままでは、私は幸せになれないのでは、という思いが脳裏をよぎる。

 いつ私の元を訪れるか分からない天使を待ちながら、夫に先立たれたかなしみを癒し、生きていく希望を新たに見つけだすなんて、私には不可能に思えたのだ。

「君が呼ばれた時は、ぼくが迎えに来るよ」

 最期の時、夫はそう言った。

 私はただ静かに首を振り、彼を見送った。

 その後、私のお腹の中に子どもがいると分かったのは、偶然ではない。

 私は、彼の置き土産を望んだのだ。



 子どもが学校へ上がり、多少時間に余裕ができてきた頃、教区長が我が家へやってきた。

 天使になって、宣託を告げる手伝いをしないか、ということだった。神の子らに、運命が定めた最期を知らせる名誉な仕事だ、と教区長は語った。きっと、私と娘の境遇を見かねての相談だったのだろう。

 私は、その申し出を断った。嘆かわしいことだと答えて。

 二十年前、母が亡くなった時、天使は選ばれた人々の役職だったはずだ。それは美しき隣人たちの神聖不可避な仕事でなくてはいけない。近頃は、誰も彼もが天使を務めようとするから、余計な混乱が起こるのだ、と。

 私はそう嘯いて、教区長を家から追い出した。彼には、私が狂信者に見えたことだろう。

 けれど、やはり私には、人に死を告げる仕事などできない。もちろん、彼の誘いを受ければ、私と娘の生活はもっと楽になるだろう。娘に小さくなった服を無理に着せずに済むし、夕食の副菜を一品増やすことだって出来るだろう。そう分かっていても、私には申し出を受けることはできなかった。

 母の元へ天使が来た日から、もう二十年ほどが経った。その間にも、世の中は変わり、天使の持つ意味や役割にも変化が訪れた。私たちに恐怖を与え、畏怖の象徴だった彼女たちは、今や私たちに身近な存在となり、天から福音を運ぶとされている。

 ある時まで、天使は無表情で得体のしれない、無機質な存在だった。彼女たちは私たちを怯えさせたけれど、同時に威厳を持っていた。

 それが崩れたのは、天に召された人たちが、天使として私たちに会いに来るようになってからだろう。

 私の父がそうであったように、多くの人は死への恐怖を忘れ、向こう側で待つ、と言い、うれしそうに死んでいった。

 私には、それが恐ろしくて仕方がない。

 私たちは、愛する人を奪われるかなしみを忘れてしまったのだろうか?


 結局、私の元へ現れた天使は、母だった。昔と変わらない笑顔で私に笑いかけると、母は仕方なさそうに溜め息を吐いて、

「サラが誰も指名しなかったから、私が選ばれたのよ」

 と言った。母が差し出したのは、一枚の書類だった。

 手続きはすぐに終わった。昔ほどの書類の束はなく、煩雑な確認事項もない。多くの名もない人たちの努力によって、宣告を受けた人たちは以前より有意義に、最後の一日を過ごすことができるようになっていた。

 私は資料にサイン一つ済ませて、母に帰ってもらった。

 そして、すぐに教区長へ挨拶に行き、私が死んだあとのお世話をお願いした。これも昔から変わったことの一つだ。早くから天に召される親が増えたため、孤児たちはそれぞれの教区で預かり、大人が協力して、育てることになっている。

 教区長は、通り一遍の賛辞を告げた後、暗い顔になって、娘の不幸をかなしんでくれた。

 本来、それは禁じられていることだったので、私は何も答えずに、俯いていた。

 私は、教区長の話を聞いている間、娘にこのことをどう伝えるか、あるいは、伝えないかを考えていた。

 まだ六歳という子供に、親の死は耐えられないことだろう。まして、それを前日に告げられるなど、娘の性格を考えれば、今日と明日が辛い日になってしまうことは分かりきっている。それに、かなしむための時間なら、私が天に召された後、いくらでもある。

 私は、娘に真実を告げないことを決めた。


 翌日、私は娘に学校を休ませ、海岸へ車を走らせた。車は教区長に借りたものだ。

 娘は怪訝な顔をしたけれど、用意しておいたランチボックスを見せると、喜んで、部屋を駆け回った。

 私と娘が向かった海岸は、私と母がよく通った場所だった。波の穏やかな入り江の岩場で、私は引き潮に取り残された魚や貝を捕まえては、母にそれを見せに走ったものだった。

 母はいつも、波打ち際から離れた木陰に座り、私を見守ってくれた。

 そこは幼い私のお気に入りの場所で、娘もまた、その海岸を気に入っていた。

 一人歩きに不安がある頃から、岩場へ何度か連れてきては、娘と一緒にごろごろとした岩場を歩いた。

 その時も、ここへ来たかったのは娘ではなくて、私だったはずだ。母との思い出を確かめるために。

 娘との関係が上手くいかない時ほど、私は自分を落ち着けるために、ここへ通った。

 午前中、私は娘と一緒にあちらの岩場、こちらの岩場と歩き回り、小さなバケツに沢山の小魚やヤドカリを捕まえた。

 陽が高くなると、木陰でシートを広げ、休憩をとった。その日は日差しが強く、娘の肌は既に黒く日焼けし始めていた。帽子を用意し忘れたうかつさを笑いながら、私たちはきっと最後になる食事をとった。

 最後。その言葉が視界をよぎった時、わたしはふいに泣き出してしまった。娘を一人残していくという強い実感の中で、絶対に涙を見せたりしないという決意はもろく崩れた。

 娘を思うなら、私はここで涙を流すべきじゃなかったのだ。決して娘を不安がらせてはいけなかったはずなのに、私はこらえきれず泣いた。

「お母さん……?」

 訝し気に私を見た娘は、その一瞬で、来るべき運命を悟ったようだった。目を大きく見開き、唇をきゅっと結んで、彼女は私を見つめる。

「天使が来たの?」

 私は必死に涙をこらえながら、そうよ、と呟く。娘は、どこで覚えてきたのか、私の頭を自分の胸に抱いた。

「大丈夫よ。お母さん。天に召されるってすてきなことなんだから」

 娘はこれ以上ないくらいやさしい声を出した。そしてそれは、まるで誰かに教わったままの言葉のようだった。

 私は強い違和感を覚え、顔を上げる。この子は、私を慰めているんだろうか?

「私の番が来たら、きっとお母さんが天使になって、迎えに来てね」

 娘は疑いようもない笑顔で笑っていた。

 私は自分の愚かさを恨んだ。

 彼女は、私と違い、神の国で教育を受けた子どもだったのだ。

 私が奪われたくないと望んだものは、娘には初めからなかった。



 私は死ぬと、とある施設へ送られた。

 葬儀は、教区が主導して執り行なわれたはずだ。

 娘は私の棺が運び出される様子を、きっと笑顔で見送っただろう。そのために、私を送り出す音楽は荘厳な旅立ちの歌だったに違いない。

 そう考えると、私は泣きそうなくらい情けなくなった。娘がどんな気持ちでいるかを考えると、失ったものの大きさに愕然とする。

 彼女はかなしみを奪われたのだ。


 私が目覚めると、傍らには、あの頃と何も変わらない夫が座っていた。彼は私が目覚めたのに気付くと、君が起きるのを待っていたんだ、と言った。

「天使として、ぼくが迎えに行こうと思ったけれど、君が以前ダメだと言っていたから」

 ようやく会えて、うれしいよ、と彼は言った。

「まず、ここで暮らすにあたって、君は学校へ通わなくてはいけないよ」

 私の夫だった男性は、久しぶりの再会を喜ぶ間もなく、一つの資料を私に差し出し、説明を始めた。

 私はしどろもどろになりながら、それを遮る。

「ね、ねえ、少し待ってくれない? 私は死んだのよね? ここはどこなの?」

 彼は私の質問を聞いてから、にっこりと笑った。

「落ち着いて、サラ。ここは天国だよ。名前ぐらい知っているだろう?」

 私は絶句する。ここが、天国?

 彼は、私の表情を見て、思う所があったのか、すっと笑顔を取り消して、真面目な顔をした。

「君はすぐにここに慣れなくちゃいけないね。あの子を迎えに行くのは、君の役目なんだから」

 その時、私は理解した。

 世界は大切なものをなくしてしまったんだ、と。


 私はリノリウム張りの、光に満ち溢れた廊下を歩いている。

 クリーム色の床と壁は朝の光を浴び、影一つないように見える。開け放した窓からは春の緑風が吹き込んで、額ににじんだ汗が引いていく。陽の光がなければ、少し肌寒いと思ったかもしれない。

 子どもの頃、私はこんな廊下をみんなと一緒に駆け回った。美術室からは粘土の油臭いにおいがして、別の階の子どもたちの嬌声が、遠く響いてくる。

 好きではなかった学校も、今思い出せば、懐かしい限り。もう一度、あそこへ戻りたいとさえ思う。あの頃の、今はもなくしてしまった感覚を、子どものときだけ見えていた幻を取り戻すことができたなら。

 そう夢想することは、一度や二度ではなかった。

 けれど、私は廊下を歩いている。

 大人になった身体で、一歩ずつ、廊下を踏みしめる。

 窓の外には青空が見え、雲が点々とちらばった様子は、モザイクタイルのようだった。空の濃淡はわずかずつ組み替えられて、刻一刻と新しいパターンへと生まれ変わる。

 風がごうと吹き、窓を揺らすと、暗く重たい雲が西から流れてきた。

 獣の鼻息のような雷鳴が轟き始めると、ざーっと雨が降り出した。雨は強く地面を叩き、土を穿つ。掘り返された土は水と共に低い方へと流れていき、水たまりに溜まっていく。

 雨が降り続き、ついに地面が一面の湖になると、水面は暗い鏡面のように、真っ黒に塗り潰された。鏡の表に弾かれる雨音は、水琴窟のように高い音を立てる。

 その時、世界がぱっと輝き、雨の湖面に紫色したジグザグの亀裂が走った。亀裂はすぐに消え、大きな水たまりの表面には以前と同じように、真っ黒い鏡が浮かぶ。

 もう一度、稲妻が鏡の表面を叩き割った時、廊下に電気が灯った。

 すると、廊下にさっきまで響いていた激しい雨音や、蛙の声、空をつんざく雷の悲鳴も聞こえなくなった。

 私はまだ歩き続ける。

 気付けば、窓ガラスは割れていた。

 雨はやみ、軒から滴る雨だれの音だけが、ぽつぽつと囁いている。

 私は年老いて、すっかり鈍く、重たくなった足を前へ、前へと運ぶ。

 そろそろ廊下の果てが見えてもおかしくはないのだけれど、と私は思い始める。

 廊下は真っ白な電灯に照らされ、外の夜をはっきりと拒絶する。

 すっかり世界を覆い尽くした夜も、容易には廊下に入り込めない。

 だから電灯は明滅し、夜は全てを飲み込もうとする。

 私は、もう歩けない。

 ゆっくりと廊下に膝を突き、そのまま冷たい床に顔を付ける。

 呼吸がゆっくりになっていき、次第に弱まる。

 私はここまで来た。それだけで充分じゃないのか?

 夜は、私の爪と指の間から入り込む。

 私はすっかり安堵して、眠りに就いた。

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天使が奪い去る 茜あゆむ @madderred

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