8.バルバロイ

 森の中に伸びる細い道に、煙が流れ込んできた。灰色と黒、濃淡入り交じったそれは、強く吹き始めた風に流されて、地面を這ってくる。そして私たちの鼻に、強烈な異臭がねじ込まれだした。キャンプファイヤーで体験した、木材や植物が燃えるかぐわしい匂いじゃない。油や金属、そしてあるいは……食べられないが、燃えている。

 この先は危険だ、脳がそう指令を出し始めるが、アリデッドはかまわず突き進んでいく。

 森が開けた。流れる煙の合間から、赤い光がいくつも見えてきた。

 炎だ。村の家屋たちが、ごうごうと音を立てて、勢いよく燃えさかっている。

「くっ……。風上を意識しろ、煙に飲まれるなよ!」

 声をかけて、アリデッドはさらに飛び込んでいく。

 その後ろ姿を、脇から流れてきた煙が阻んだ。燃えさかる炎が熱風を生んで、あたり一帯に強く吹き荒れている。

 この有様で、生き残りなど居るのだろうか。

 火災の煙を下手に吸い込むと、喉の火傷と毒で動けなくなる。防災訓練で聞きかじったこの知識が、私をひどく臆病にさせる。

 後を追おうと前を進むキョウヤが、私の方に振り返ろうとして、一瞬だけ速度を緩めた。それが私の足をためらわせ、シセインの動きを凍らせる。

 私たちはいつしか、煙の渦の中で棒立ちになったまま、互いの顔をじっと見合わせていた。

 どうしよう。なにをすればいいのだろう。

 そう、思い悩んだ時。私の耳に、ささやく声が聞こえた。

『風上を意識して』

「風上!」

 気流は複雑に入り組んでいるが、おおよその風の向きを把握できれば、火が回ってこない安全な場所を知ることはできる。

「人がまだいるなら、風上に向かってる!」

「……こっちだ!」

 辺りを見渡したキョウヤが、真っ先に地を蹴る。こういう時の観察力、行動力は頼りにしている。私とシセインもその後を追う。

 立ち上る煙の流れを見れば、風はたしかに、左手の丘の上から吹き下ろしている。丘の上に人が逃げているなら、指示通り街道へ避難させなければならない。そして……そこに敵の追撃が行われているならば。

 戦わねばならない。私たちの手で、助けるために。

 剣をつかむ手に汗がにじむのは、立ちこめる熱気だけのせいじゃない。

 その時、キョウヤが唐突に足を止めた。手にした剣を胸元で構え、声をかける。

「村の人ですか!」

 彼の背後に隠れるようにして、私たちも足を止め、得物を構えた。

 正面を流れる煙の中に、人影が見える。大人の男性だろう。やや猫背でがっしりとした体格は、アリデッドではない。

「条約機構の者です、避難を誘導します!」

 その声が、明らかに上ずっていた。この中では彼が一番頼られる立場だから、いつものように必死に行動しているのだろうが……内の恐怖心と頼りなさが、隠しきれていない。

 煙の中で、人影が振り向いた。炎が踊り、はぜている音が、ずいぶんと激しい。そんな中でも、こちらの声は届いたようだ。

 しかし……はっきりとした返事は、向こうから聞こえてはこない。代わりに、なんだろう。「バル、バル」という、言葉にならない、でもたしかに人間の発する声がかけられてくる。

「なに……?」

 魔法の言葉だろうか。訊ねるようにシセインへ振り向くが、彼女も不思議そうな顔をするばかりだ。

「バル……バルー!」

 人影は、はっきりとそう叫んだ。その時、ひときわ強い風が丘から下りてきて、辺りの煙をぬぐいさった。

 人影は、粗末な衣服を身にまとった男だった。動物の毛皮と、骨の飾り。露わにさせた褐色の肌、たくましく発達した筋肉。そして……こちらを見据える顔には、あまりにも奇妙な……ユーモラスと言うしかない表情の、石の仮面がはめられていた。

 大きく開いて笑ませた口、ぐにゃりと歪んだ二つの目。眉と繋がった眉間のしわも、両目に合わせて大きく歪む……平時に見れば、笑いをこみ上げさせたかもしれない。でも、今の私には深い恐怖ばかりを刻み込んでくる。

「……バルバロイ!」

 キョウヤが、驚愕のあまりに、のけぞって叫ぶ。

「何なの!」

「世界史の資料集、読んでないのか! 古代ギリシアで、劇に用いられた仮面! 異邦人役がかぶって、後に野蛮人の語源となる……」

 そんな言葉など、聞いてる場合じゃなかった。

 仮面の男は、手にした斧を……そう、斧だ。金属の斧だ。当たったら怪我じゃすまない、柄の長い斧だ。脇に大きく振りながら、こちらに向けて踏み込んできて……。

「逃げて!」

 必死にあげた声に、ようやく我に返ったキョウヤが、身をそらしながら後方へかわした。巨大な斧が、唸りを上げながら空を切る。

 血の気が引いた。

 刃先と身体の間の距離など、問題じゃない。コイツは、明らかに殺す気で武器を振るった。

「こいつは、アルティールの手先だ! ヤツが、近くに!」

 身をよじり、どうにかバランスを取りながら、キョウヤが叫ぶ。

 そのキョウヤに向けて、今度は、斧が頭上に振りかぶられた。

「バルゥー!」

 醜く、意味を聞き取れない叫び声。

 斧の先端が、炎の照り返しを受けてきらめく。その瞬間に、あの時の、私に向けられた刃物の記憶がよみがえった。

 もう、見ていられなかった。

 私は背を向けて……駆け出した。

 走った。何も考えずに、走った。風上とかなんとか、避難誘導とか、戦うとか、すべて忘れて、うち捨てて、逃げ惑った。

『逃げるのか、弱虫ー、逃げるのかー』

 記憶の中のいじめっ子たちが、はやし声をあげている。

 だけど、弱虫だろうと、臆病だろうと、情けなかろうと。私にはまだ覚悟が備わりきっていなかったのだ。

 あの斧と立ち向かう覚悟も……仲間が傷つくのを目の当たりにする覚悟も。

 また?

 また、って、この前は、いつ?

 アリデッドがゴブリンに傷を負わされた時、私はその光景を目にしていない……。

 胸が激しく動悸している。これ以上走り続けると、心臓がもたない。

 そう気付いて、足を緩め、荒く呼吸を繰り返し、かすかに吸ってしまった煙に咳き込んで……ゆっくりと、後ろを振り返る。

 仮面の男は、追いかけてきていない。

 そして……キョウヤとシセインも、ついてきていない。

 私は……一人きりだ。

 燃える家屋の合間、煙の隙間で、私はかろうじて息を保って、立ち尽くす。

 熱気が、肌を焼く。はじける火の粉が、すぐ足下まで降りかかってくる。

 限界を超えて動かしていた両足が、鋭く悲鳴を上げはじめた。

 手にはまだ、剣をしっかり握ってはいた。いたけれど……それを振るうどころじゃなかった。

 私は……立ち向かうことから、逃げたんだ。

「こんなことじゃ……フミちゃんを取り戻すなんて……」

 とても無理だ。

 そうつぶやこうとした時。

 目の先に、人影が立っているのに気が付いた。

 逃げ遅れた人……? いや。

 その影は優雅に、真っ直ぐに立ち、こちらをじっと見つめている。

 煙がゆっくりと、音もなく流れていき……その姿が少しずつ露わにされていく。

 清楚な白いなめし革の、スカート付きの鎧。胸元まで流れる長い黒髪。色白だけど黄色っぽい肌、顎の細い顔の輪郭、黒い眼鏡、広い額の上に描かれるウェーブ。

「……フミちゃん!」

 彼女は……フミは、抜き身の細い剣を手にしたまま、揺れる炎の間に立って、私をじっと見据えていた。

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