Autumn Term 「事件」

 担当とは違う教師が教室にやってきて自習を告げると、生徒のおよそ半数はやった、と喜びの声をあげた。ルカは別に嬉しくもなく残念でもなかったが、どうせ自習ならこのまま教室にいる必要もないなと、何冊かの本とノート、ペンケースを手にぞろぞろと廊下に出ていく流れに加わった。

 窓の外の、すっきりしない曇り空を眺める。吹き込んでくる風はそれほど冷たくはないが、なんだかじっとりと重く、雨が降るかもしれないなと感じた。こんな日は部屋で一緒にテディのラップトップでも覗きこんで過ごすのがいいかもと思いつき、ルカは笑みを浮かべた。

 お菓子でも食べながら、自分のモバイルを繋いでネットサーフィンを楽しむのだ。大学のホームページを見ていろいろ語りあうのもいい――最近、テディはしっかりと真面目に過ごしてくれているが、だからといってそれに安心して放っておいてはいけないのだ。

 ふたりの近い将来がこんなふうになるのだと想像することで、今のままモチベーションを保ってもらわなければならない。どの大学に行きたいかが絞れたら、その近くのアパートメントを検索してみるのもいいかもしれない。どんな部屋で一緒に暮らして、どんな毎日を過ごすのか――テディが喜ぶように、幸せになれるように具体的に夢を思い描くのだ。そして、自分はそれを叶えてやる。ルカにとってのモチベーションはそれだった。

 ルカは校舎を出る前に、まず図書室を覗いてみた。書棚の間を見まわしながら奥へと進んでいくと、自習を告げられたクラスメイトたち以外にもぱらぱらと人がいて、いつもよりも混んでいた。閲覧テーブルを死角にしている大きな書棚をいくつか過ぎ、先日と同じ場所にマコーミックとクレイトンをみつけると、ルカは近づいていって声をかけた。

「今日はふたりか」

「やあブランデンブルク。さっきまで三人だったんだけどね」

「さっきまで?」

 ルカがそう聞き返すと、今度はマコーミックが答えた。

「ヴァレンタインもいたんだが、つい五分ほど前に出ていったんだ。確か、煙草を買いに行くとか云ってたな」

「買いに行く? 取りに行くじゃなかったか?」とクレイトンが云うのを、ああ外に出られるのを知らないのだなと聞き流し、ルカは「そうか、ありがとう」と礼を云って図書室を後にした。


 煙草を買いに出ただけならすぐに帰ってくるだろうと、ルカは楡の木の辺りでしばらく待とうと思った。が、そこに行ってみると、以前自分が括り付けたロープが枝に引っ掛けたままになっていた。

 外から塀を登りやすくするため等間隔に結び目をつくったロープは、普段はこうして楡の木の枝に掛けてある。外に出るときだけ、外からあまり見えないように、ぎりぎり手が届く位置までだけ垂らすのだ。そうしないと、誰でも構内に侵入できてしまうからである。つまり、今ロープがこうして内側にあるということは、テディは外には出ていない――か、ロープを外に垂らすのを忘れて出てしまったか、だが――。

「……忘れない……よなあ……」

 あれだけ何度も外に出ているのだ。それに、塀を越えるために木を登れば嫌でもロープは目に入る。うっかりそのまま外に出てしまったとは考え難かった。

 とりあえずハウスに戻ってみようと、ルカは楡の木を通り過ぎ、ウィロウズ寮へと歩き始めた。


 風が止み、空気はますますじめじめと湿り気を帯びていた。黒く厚い雲が空を低く覆い、いつ雨が降ってきてもおかしくない空模様だった。ルカは何故かなにかに急かされるように速い足取りで階段を上がっていき、最上階まで来ると自室の前を通り過ぎた。テディが不在だったら、傘を持って外へ捜しに行ったほうがいいかもしれない。

 いちばん奥のテディの部屋をノックしようとして――なにか物音が聞こえるのに気がついた。耳をそばだてると、微かに声も聞こえる気がする。誰かいるのかと、ルカは眉をひそめながらノブに手を掛け、ゆっくりとドアを開けた。

 ――目に入ったその光景に、ルカは瞠目して手にしていた本やノートを取り落とし、「なにをしてる!!」と鋭く怒鳴った。

 両手をいましめられているテディと、テディを丸テーブルに押さえつけている男が同時にこっちを振り返るのを認識する間もなく、ルカは駆け寄り、そこにあった椅子を担ぎ上げ、その男の頭目掛けて振り下ろした。勢い余って椅子はルカの手からすっぽ抜けて床の上を跳ね、壁に当たってがたがたと揺れた。

 ぐあっと呻いた男が、そのすぐ傍に転がる。両手は頭を庇うように伸ばされ、躰はくの字に折り曲げている――シャツの裾の陰から腿と、陰茎が見えていた。穿いているものが膝まで下ろされているのだ。思わずテーブルに凭れたまま躰を捻り、こっちを見ようとしているテディを見る――テディも、上はブレザーまできちんと着ていたが、下はトラウザーズも下着もずらされていて尻が剥きだしだった。背中側で両手首をがっちりと縛めているのは茶色い革のベルトだった――ルカはかっと目が眩み、足許に転がっている男を思いきり蹴り飛ばした。怒りに震えながら何度も何度も繰り返し蹴り、踏みつけ、足を取られて男の上に倒れ込みながら今度は殴った。

「なんてことをしやがるんだ!! ちくしょう、くたばれこの野郎! ……くそっ、くそおっ、この変態野郎が――」

「ルカ!! ルカ、違うっ! やめて、誤解してる……!! 襲われてたんじゃない、ただの遊びだって……! やめて、それ以上やったら先生が死ぬ――」

「先生――」

 はっと我に返って殴りつけていた男の顔をよく見る――ハーグリーヴスだとやっとわかり、ルカは真っ赤になった自分の拳を見た。いきなり痺れたような痛みを感じたが、どうやら手を染めている血は自分のものではなかった。

 ゆらりと立ちあがって、やっとまともに動きだした頭で状況を把握する――陰茎を露わにしたまま、頭から血を流して床に倒れている舎監教師ハウスマスター。傍らには転がった椅子。これで殴りつけたのだ――テディが襲われていると思って、ついかっとなって、頭を――。もう一度床に倒れているハーグリーヴスを見る。頭の周りには血溜まりができている。ハーグリーヴスはぴくりとも動かない。

「――死んだ……? 俺、殺しちまったのか……?」

「ルカ! とりあえずこれ、ほどいて!」

「あ、ああ……」

 テディに云われ、手首のベルトを外してやると、彼はさっとトラウザーズを上げてジッパーを閉め、ハーグリーヴスの傍にしゃがみ込んだ。

「大丈夫、死んでない! 早く救急車を呼ばないと――」

「救急車――」

 よろよろと縺れる足をなんとか動かし、廊下まで出ると、ルカは窓を開けて大きな声で助けを呼んだ。





 ベッドに並んで腰掛け、ふたりは神妙な面持ちで、揃って溜息をついていた。


 ――ルカの声を聞いたモーリンはハウスから出て外から窓を見上げ、どうしたの、怪我をしたの!? と驚いた顔で尋ねた。とにかく救急車を、と必死に訴えるルカにただ事ではないと感じたのか、彼女はすぐダグラスに知らせたらしい。

 やがてダグラスが最上階まで上がってきて部屋を覗き、ハーグリーヴスが血まみれで倒れているのを見ると、彼は階段の手摺りから身を乗りだし早く救急車を呼べと大声で云った。その声に、ルカはやっと自分がモバイルフォンを持っていることを思いだした。ポケットから出し999をコールしてから渡すと、ダグラスは冷静に状況を説明し、とにかく急いで来てくれと念を押した。

 部屋に残っていた何人かの寮生が騒ぎ始めるなか、どこからどう伝わったのかパターソンやゴードン、モースタンまでもがやってきた。校医であるパターソンはハーグリーヴスの傍に膝をついて頭などを慎重に見ていたが、その場でできることはないのか、動かさないほうがいいと判断したのか、なにもせずそのまま救急隊員の到着を待っていた。そのとき、ダグラスがふと思いだしたようにルカにモバイルフォンを返してきた――ルカは慌てて見られないように受け取ろうとしたが、目敏くゴードンにみつかり、こんな場合だというのに没収されてしまった。

 やがてサイレンが聞こえ、ばたばたと濃い緑色の制服を着た救急隊員たちが階段を上がってきた。ハーグリーヴスがハンモックのような担架に乗せられ、四人掛りで運び出されるのを皆息を呑んで険しい表情で見ていた。ルカは真っ青な顔で俯き、血で汚れた手をだらりと下げたままその場に突っ立っていた。テディはそんなルカを心配そうに、一歩退いたところから見つめていた。

 いったいなにがあったんだ、とすぐに尋ねられなかったのは、ハーグリーヴスの恰好を見れば一目瞭然だったからであろう。パターソンもモースタンもいったいなにをどう云えばいいか、扱いかねている様子だった。それをなんとかしなければと思ったのか、それともひとりだけピンときていなかったのか、ゴードンが「ハーグリーヴスのあの恰好はどういうことなんだ、なにをしていたんだ?」とテディに尋ねた。テディが困った顔で云いにくそうに「……ちょっと……SMエスエムごっこみたいな……」と莫迦正直に答えると、ゴードンは口をぱくぱくとさせて黙ってしまった。

 それきり、誰も続けて質問する気にはならないようだった。その奇妙な沈黙に、ルカはなんだかおかしくなってきて、思わずテディと顔を見合わせて笑ってしまいそうになるのを必死で堪えた。

 が、事態はそれどころではなかった。とりあえずこちらから呼ぶまで自室で待機してなさい、とやっとモースタンが云ったが、テディが「自室、ですか……」と呟くと、ああ、と困ったように天井を仰いだ。床が血だらけのままの部屋にいろとは、さすがに云えないようだった。

 ルカが「しょうがないから俺の部屋に……」と云うと、なんだか投げやりな感じでじゃあそうしなさいと云われた。


 そしてテディはシャワーと着替えだけ済ませ、ルカの部屋に来た。ルカももう手を綺麗に洗い、着替えを済ませていた。テディはとてもばつが悪そうな顔をして、どこにいればいいのかと迷うように部屋の中を見まわした。ルカはベッドに腰掛けていた。部屋の中程にはソファとロッキングチェア、丸テーブルの前に椅子が一脚があり、いつもならそこに坐るのだが――ロッキングチェア以外はほとんど同じ設えのテディの部屋でついさっき見た光景がまだ目に焼きついていて、とてもテーブルの前に坐る気になれなかった。テディも同じことを気にしたのか、結局ルカの隣に腰を下ろした。

「なにがSMごっこだよ……まったく、なにやってんだよおまえ。勘弁してくれよ……」

「……ごめん……」

 本当は、もっと他に云いたいことが山ほどあるはずだった。だが今は、もうこれで終わりだの今度こそ最後だのと、飽き飽きしているやりとりをしている場合ではなかった。

 ハーグリーヴスは救かるのだろうか。もしも救からなければ、自分は殺人犯になってしまうのか? 否、傷害致死になるのだろうか。いずれにせよ、ただで済むとは思えなかった。

 救急車が来たあと、ルカは同時に警察も来たのではないかと思っていた。が、それは今も来ていないようだった。どうなるのだろう。自分はいったい、どうなってしまうのだろうと、ルカは膨れあがる不安に手足が冷たくなり、視界が望遠鏡を逆さに覗いたように遠ざかっていくのを感じた。

 その手が、不意になにかに包まれた。テディが両手でぎゅっとルカの手を握り、そこに額を押しつけていた。微かに震え、漏れ聞こえる嗚咽にすっと視界が戻る。

 ルカは気丈なふりをして、「なに泣いてんだよ、きっと救かるよ」と云った。

「……ほんとに……ごめん……!」

 いつまでも細く震える肩に、ルカはこつんと頭を凭せかけ、じっと呼びだしがくるのを待った。

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