Autumn Term 「Toxic」

「おいテディ、それ、ちょっとウイスキーの量が多くないか?」

「……そう?」

 指一本ぶんぐらいの高さまでジョニー・ウォーカーを入れたグラスに、テディは茶色い小瓶を傾け、赤紫色の液体を注いだ。小瓶のラベルには Codeine cough syrupコデイン コフ シロップ ――コデイン配合の咳止めシロップと記されている。そのグラスに7UPを高い位置から勢いよく注ぎ入れると炭酸がしゅわぁ……と音をたて、綺麗な菫色すみれいろに変化した。

「教えたのは俺だけどさあ……ほどほどにしとけよ。またこのあいだみたいにお迎えが来て面倒なことになっても、俺は知らないからな」

「大丈夫……これ一杯だけにしとくよ。二杯も三杯も飲んだらまたあっちへ戻れなくなっちゃうからさ」

 そう云ってテディは、グラスの中の菫色の液体を飲んだ。ふう、と息をついて今度は煙草をスウェットのポケットから取りだし、一本咥えて火をつける。

「煙草吸うのもすっかり板についちゃって。最初はなんだか危なっかしくてほっとけない、可愛い子ちゃんcutieだと思ったのに」

可愛い子ちゃんcutie? 嘘ばっかり……ジェレミー、あんたそっちの趣味はないじゃない」

 煙草を指に挟んだ手で頬杖をつき、テディはソファにだらしなく躰を預けているジェレミーを振り返った。

「おまえ見てるとかな、って気になってくるんだよ」

「……ふうん」

 テディはなんだか気に入らなさそうにジェレミーから顔を逸らすと、半分ほど残っていたグラスを呷り、またウイスキーのボトルに手を延ばした。それを見てジェレミーは「おいおい」とソファから膝をつくようにして降り、テディの肩に手を置いた。

「一杯だけって云ったろ。もうやめとけ」

「じゃあ、この前のやつまた分けてよ」

「この前のって、スピード? そりゃだめだ。おまえ、今シロップ飲んだばかりじゃないか」

「わかってる。今はやらないよ……あるんだろ?」

「あるけど」

 しょうがないなと立ちあがり、ジェレミーは冷蔵庫の中からフィルムケースのような小さな容器を取りだした。それを手にしたままテーブルのところまで戻ってくると、じっとその様子を見つめているテディの隣に腰を下ろす。

 早く寄越せと云わんばかりに手を出すテディに顔を顰め、ジェレミーは「誰が全部やるっつったよ。それ少しちぎれ」と、視線と僅かな顔の動きだけでサンドウィッチを作るときに使うアルミホイルを示した。テディは云われたとおりアルミホイルを少し破りとってテーブルの上に広げ、ジェレミーはそこに容器の中の薄いオレンジ色をした錠剤をいくつか振り出した。

「まじでもう今日は絶対にやるなよ。明日授業が始まって、どうしても怠いときとかにしとけ」

「わかってるってば」

 ジェレミーがスピードと呼んでテディに渡したのはアンフェタミン――ADHDやナルコレプシーの治療に使用される中枢神経刺激薬、所謂覚醒剤の一種である。

 テディは錠剤を包んだアルミホイルをスウェットパンツのポケットに入れ、「お金はいいの?」と尋ねた。

「いらないって。俺を売人にしたいのか?」

「だって、もらってばっかでなんか悪い気がしてさ。かわりにキスでもしとく?」

 コデイン入りのカクテルが効いてきたのか、テディはとろんと目を細めてふわりと笑いながらふざけた調子でそう云った。今夜はあまり酔っていないジェレミーは、その無防備な微笑みに苦笑しながら溜息をついた。

 偶々拾ったこの危なっかしい後輩は、どうしてだか妙に保護欲をかきたてられる存在なのだ。とはいえ、いろいろ危ないことを教えているのは、そもそも自分なのだが。

「誘惑するなよ。襲うぞ」

「襲ってみれば? 俺はなんだろ……試せば」

 自分の云っていることがわかっているのかいないのか、それともただの冗談なのか――テディはくすくすと笑いながら顔を覗きこんできた。ゴロワーズの強い香りが鼻先を刺激する。ジェレミーはテディが指に挟んだままの煙草を取りあげ、一口吸いながら床に転がって眠っているロブのほうを見た。ロブがこんなふうにいちばん先に酔い潰れて眠ってしまうのは、めずらしいことだった。

 今日はなんだか変な日だと思いながら、ついでに時計を確認する――午前二時を少し過ぎていた。自分がほぼ素面のままなのは、ロブの代わりにテディを見ていなければという義務感の所為かもしれない、とジェレミーは思った。

 肩に重みを感じ、逸らしていた視線を戻すと頬に柔らかな髪が触れた。テディが肩に頭を凭せかけていた。潰れて眠ってしまったのかと思ったが、そうではなかった――顔を覗きこもうとすると、テディは上目遣いに自分を見つめてきた。どくん、と鳴った心臓の音をごまかそうとするかのように、ジェレミーは手にしていた煙草を灰皿に押しつけ、揉み消した。

「……ウイスキーの量が多いって云ったろ? ほら、もう部屋に戻るか、ソファで少し――」

「泥の中に沈んでくような感じがするんだ……」

「え?」

 肩に頭を預けたまま、テディがなにか呟いた。

「もがいてももがいても、俺はそこから出られなくて……そのうちに蛇とか、気味の悪いものがいっぱい絡みついてきて、身動きできなくなるんだ……」

「なんだ……夢の話か? バッド入った?」

「消してよ、ジェレミー……」

 テディの手が縋るようにジェレミーのシャツを握りしめた。

 なんだかよくわからなかったが、しょうがないなとジェレミーはテディの頭を撫でてやり、背中にもう一方の手をまわした。厚手のスウェットの上からでも、その躰が痩せすぎなくらいほっそりとしていることがわかる。

 さっきは冗談半分にあんなことを云ったが、これだけ華奢なら本当にかもな、などと思ってしまう。まだ肩幅や背中も広くなく、筋肉も薄く、髭や体毛も薄い。ゲイの男ならそれらはむしろ好ましい要素なのかもしれないが、寄宿制の男子校というこんな閉鎖的な環境でストレートが恋愛ごっこをしてみようとするならば、まだ男になりきらないこんな年頃の少年を相手に選ぶ輩のほうが多いだろうな、とジェレミーは思った。おまけにテディは、ハンサムというタイプではなくそれほど表情豊かでもないので気づき難いが、よく見れば欠点のない、とても綺麗な顔をしている。

 ジェレミーはよしよしとテディの背中を撫で摩りながら「もういいか? 大丈夫かおまえ……しゃんとしないとまじで襲っちまうぞ」と、冗談めかして云った。返事がないので、少し躰を離して顔を見る――大きな灰色の瞳が、憂いを湛えて自分を見つめていた。ジェレミーの顔から貼り付けていた笑みが剥がれた。試せば、と頭の中でテディの声がした。

 冗談じゃない、とジェレミーは思った――試すまでもない。同性になど興味はないが、テディは別だ。

「ほんとに……おまえは危なっかしいよ……」

 ゆっくりと顔を傾け近づける。その形のよい唇に自分の唇が触れたとき、まるで電流が走ったかのように全身がぶるっと震えた。何度も押しつけ直すようにして唇を喰み、舌先で内側をつるりとなぞる。甘い。ゴロワーズ、ウイスキー、そしてコデインシロップ。毒だ。これは甘美な毒の味だ。

 もう止まらなかった。甘い痺れに搦めとられるようにジェレミーはゆっくりと床に押し倒したテディと重なり、その白い喉許に顔を埋めた。





 食堂へ向かう人波に逆らうようにして、ルカはオークスハウスに向かって足早に歩いていた。


 アラームで目を覚まし、欠伸をしながらバスルームへ向かう途中、ルカはいつものようにテディを起こしてやろうとした。が、ベッドはもぬけの殻だった。

 またか、という呆れと怒り、嫉妬を含んだ憂慮、自分のこんな心情を察してもらえないという失望――愛情がもし目に見え、手に触れられるものならば、その色は曇り、抱えている腕がその重みに疲れを感じ始めたような状態だったろう。ルカはやりきれない思いを自分でどう処理すればいいのかわからず、とりあえずいつもどおりに身支度をした。点呼のときは、シャワーを出しっぱなしにしておくことでテディの不在をごまかした。


 朝のきんと冷えた空気の中、ルカはなにも考えず、ただ歩いた。放っておいて、テディが自分から授業なり部屋なりに戻ってくるのを待てば何事も起こらないのではとか、行けばあのジェレミーとかいう男とまた云い合いになったり、テディとも喧嘩になるかもとか、そういうことをごちゃごちゃ考えるのはルカの得意とするところではなかった。

 とにかくテディの顔を見ないと始まらない、とりあえず連れ戻さないと、とルカは擦れ違った何人かの生徒に怪訝な顔で振り返られるのも気にせず、オークス寮に足を踏み入れた。

 朝の慌ただしい空気ごと寮生たちが出ていったあとの、窓から射しこむ陽の光に埃がきらきらと舞う階段を上がっていく。目指す部屋の前に立ち、ルカは性急なノックの音を響かせると返事も待たずにそのドアを開け、ずかずかと部屋の中に入っていった。

「テディ! いるんだろ!」

 まだカーテンも開けていないぼんやりとした明るさの中、視界の隅でなにかが動く気配と衣擦れの音がした。険しい表情のままルカがそっちを向くと――驚いたように顔を強張らせているテディと目が合った。

「テディ――」

「ん……なんだ……」

 ベッドの上で半身を起こしたテディの背後で誰かが寝返りを打った。気怠そうな声で金髪を掻きあげる――ジェレミーだった。テディがはっと振り返り、すぐにまたルカの顔を見る。ベッドの中のジェレミーもテディも、少なくとも上半身はなにも着ていないようだった――ベッドのすぐ下に、脱ぎ散らかしたスウェットらしきものが見えた。

 ビデオの静止画のようにお互い見合ったまま動かず、その場の空気もルカの思考も停止していた。意味がわからないまま、否、わかろうとしないまま、目を逸らすこともできない。

「……ルカ……」

 テディの声が、自分の名前を呼ぶのが聞こえた。金縛りが解けたように、ルカはゆるゆると首を横に振った。

「ルカ、俺――」

「なにも聞きたくない」

 不思議なことに、怒りにまかせて大声で責める気にも、一発引っ叩いて連れだそうという気にもならなかった。ルカは笑おうとするかのように口許だけを歪め、「ごめんも言い訳も聞きたくない。莫迦げてる……なんだよこれ。こんなこと――信じられない、こんなの……無理だ。もうだめだ……ありえない」と、独り言のように呟いた。躰を起こし、状況を把握したらしいジェレミーがこっちを見た。ルカは「朝から邪魔して悪かった……もう失礼する」と云って後退り、ふらふらと背を向けた。


 オークス寮を出ると、頬を撫でていく冷たい風にようやく我に返った。空を見上げて眩しさに目を細め、ああ朝食に行かなくちゃと一歩踏みだす。

 あの部屋を出てからここに来るまでの記憶がなかった――今、自分はなにを見て、なにを云ってきたのだろうとルカは思った。いつもなら通らないシックスフォームの校舎の脇をとぼとぼと歩きながら、悪い夢でもなんでもなく現実なのだとさっきの光景を思いだす。

 愛してた。愛されていると思ってた。テディには自分しかいないのだと、これから先もずっと一緒だと信じていた。それなのに――

 ふと足を止め、その場にだらりと両腕を下げたまま立ち尽くす。

 大切に大切に抱えていたなにかは、その手から零れ落ちて粉々に砕け散った。

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