Summer Term 「今日の誓い」

 談話室でテディはたっぷりとゴードンに説教をされた。

 ルカはオークスチームの生徒が最初からテディを標的にしていて、向こうから酷いラフプレイを仕掛けてきていたのだと訴えたが、ゴードンはたとえ相手が悪くてもやり返してはいけないと、至極真っ当なことを云った。

 今回は注意だけに留めるが、次に暴力行為があったら親に来てもらうぞと云われ、テディが黙って俯いているのを見てルカはつい口をだしてしまいそうになり、必死で堪えた。テディから話してもらっていない以上、そこまで踏みこんで庇うことはできない。



 イギリスの学校では午前と午後の二回、長めの休憩時間がある。午前中、二時限めと三時限めのあいだの休憩時、生徒たちはショートブレッドやサンドウィッチで軽く腹を満たす。授業によって時間が違う――体育やドラマなど、二時限分の枠を使う授業がある――午後は、三時過ぎにお茶の時間があり、このときもビスケットやケーキなどを食べる。

 寮制学校ボーディングスクールでの授業は六時頃まであるので、これがないと成長期の生徒たちは腹ももたないし、頭の働きも鈍くなってしまう。この日はミルクティーとスコーンがだされた。皆、クリームティーだ! と大喜びで、こってりとしたクロテッドクリームとジャムをたっぷりとつけたスコーンに齧りついていた。

 テディはやはり甘いものが好きなようで、理不尽な説教をされて沈みこんでいたのが嘘のように、嬉しそうにクロテッドクリームをスコーンにぼってりと乗せていた。

 相変わらずテディをちらちらと見る目や、ひそひそとなにか云われている気配はあったが、以前のような好奇心丸出しの視線や厭な雰囲気は、それほど感じなかった。どうやら同学年のなかでいちばん背が高く、体格のいいマコーミックとやりあったことで、今度は一目置かれるようになったらしい。

 これで妙なちょっかいをだす奴もいなくなるかもしれないとルカは思った。怪我の功名である。


 そして、軽く腹を満たしたらまた各クラスに戻って授業になるわけだが、云うまでもなくこの時間は眠気との戦いである。

 ルカとテディのいるクラスは六時限目がドイツ語、七時限目が生物だった。一クラスの人数が十四、五人程度と少ないため、後ろのほうの席の生徒が居眠り、なんてことも不可能だ。どの生徒も背中を伸ばして坐り、なんとか教師のほうを向いているだけで精一杯といった感じで授業を受けている。

 ルカもテディもドイツ語はある程度できるので余計に退屈で、とろんと塞がってくる瞼を閉じないようにするのが大変だった。


 七時限目の生物も終わると、ようやく待ちに待った夕食の時間である。生徒たちはぞろぞろと食堂へ向かい、食事を済ませるとまっすぐハウスに戻る。

 しかし寮制学校での一日はこれで終わりではない――寮に戻ったら自室へ戻る前にプレップルームに集まり、適当な場所に坐って舎監教師ハウスマスター監督生プリフェクトと一緒にミーティングをする。その日あったことや反省を話したりする他、舎監教師のほうから連絡事項や注意があったりすることもある。

 この日は鎮痛剤や睡眠薬など、市販薬の乱用やアルコールとの併用で起こる依存症や事故の話だった。

「以前にもドラッグについていろいろ話したことがあったが、怖ろしいのはコカインやヘロインだけじゃないってことだ。ただの風邪薬だって、使用法を間違えれば肝障害を起こしたり、意識不明に陥ったりすることだってある。重要なのは、薬というのは必要なときに正しい量を使用するから効果を発揮するのであって、組み合わせや量を間違えれば麻薬にも毒にもなるのだということだ。だから鎮痛剤などの市販薬も、使うときには正しい用量を守って――」

 なにかがあったりすると、偶にこうやって長い話をされることがある。誰かなにかやったのかな、と壁際の席に坐っていたルカは欠伸を噛み殺しながら、隣にいるテディに「もう……早く部屋に戻りたいよな……」と耳打ちした。テディは苦笑して、ちら、とハーグリーヴスのほうを見やり――目が合ったのか、すっと表情を消し去って俯いた。





「――今日はびっくりした」

 テーブルにポータブルステレオを置き、音量を絞ってゾンビーズの〈Odessey and Oracleオデッセイ アンド オラクル〉をかけながら、ルカとテディは自室で宿題に勤しんでいた――はずだった。

 いくつもの種類が入ったチョコレートのアソートのなかから、甘すぎるものを好まないルカのためにビターとヘーゼルナッツ、テディはミルクとホワイト、キャラメルと選り分けて食べながら、宿題のプリントを広げてペンを持ちそれに向かっていたのだが、曲が〝Maybe Afterメイビー アフター He's Goneヒーズ ゴーン〟になってから、カリカリというペンの音が止んだ。

 働かせている脳のリズムに合わせてノートの上を滑るはずのペンは、今は流れている曲に合わせてコツコツとデスクの端を叩いていた。その所為か集中力がどこかへ吹き飛んでしまい――或いは逆かもしれなかったが――ルカは、ふと今日のことを思いだして、そう口にした。

「……なにに?」

「コネリーに蹴られたあとさ。おまえ、向かっていっただろ? あれ驚いたよ。マコーミックにかかっていったのといい、なんか意外でほんとにびっくりした。喧嘩っ早いようには見えなかったからさ」

 ルカがそう云うと、テディは椅子に深く躰を預けて天井を見上げた。

「喧嘩っ早い……のかな……。ああいうときってよく憶えてないんだ……。我慢できずにやっちゃってるんだろうけど、自分でもよくわからない。気づいて自分でびっくりすることがあるよ。今までも、何度も同じようなことがあって……どこに行っても、いつも似たようなことばかりでもう、うんざりだからかな」

「そんなに転校とか多かったのか?」

「うん、あちこち転々としてた……。ルカ、セゲドって云ってたよね。俺はブダペストにいたんだ」

「ブダペスト? そうなのか、だからサモシュやシュトゥメルを知ってたんだな」

 包みを捲らず、齧ることもなくマルツィパンは嫌いと云ったので、食べたことがあるのだなとは思っていた。

「ベオグラードにもいたよ。セゲドからならベオグラードのほうが近いかな。プラハにもヴロツワフにも住んでた……何年か前、親に訊いたことがあるんだ。俺っていったい何人なの? って……いつだって俺は余所者だったからさ。そしたらイギリス人だって云われて……最悪だと思ったよ。ロンドンにも昔、少しのあいだ住んでたことがあったけど、いちばんきつかった。俺の国籍がイギリスなのは、おふくろがイギリス人だったからそうなっただけなんだ。俺はこれまでまったく、自分がイギリス人だなんて思えたことはないんだ……。プラハがいちばんよかったな。あそこはいろんな国から来た人がいて、人種や国籍がどうのとかあんまり云われなかった」

 イギリス人と聞いてルカは少し意外な気がした。マルツィパンの件もあって、てっきりハンガリーかその周辺の国の出身かと思っていたからだ。顔立ちもちょっとエキゾチックで、イギリス人という感じではなかった。

 自分が何人か知らなかった、というのがどういう感覚なのか、ルカにはわからなかった。ルカはハンガリーにいた頃から、姓名の表記の違いなどもあって自分のルーツ――父親がドイツ系であることも、母親がオーストリア系イギリス人であることもちゃんと知っていた。しかし、テディはルーツどころか、国籍を知らなかったと云った。

 それだけではない。聞いた話がもし本当なら、テディは父親が誰かすら知らないのだ。

「兄弟は?」

「いないよ」

「親は、今は……?」

 知っていて知らないふりをし続けるのがもう辛くて、ルカはわざとそう尋ねてみた。音楽の話以外、それも自分のことをこんなふうにテディが話すのは初めてだったが、この機を逃すともう二度と聞けないのではないかという気がしたのだ。

「……親もいないよ。ずっとおふくろと暮らしてたんだけど……事故で死んだ。それでバーミンガムのじいさんのところに行ったんだけど、なんか知らないうちにこの学校に入ることになってたんだ」

 ミルズの言葉が思いだされる。年に三万ポンドかけての厄介払い――母親を喪ったばかりの孫をすぐこんなふうに家から出すなんて、やはり疎まれていたとしか思えない。


 物心ついたときから父親がおらず、たったひとりの母親も亡くし、引き取ってくれるはずの祖父からも放りだされ……居を転々としていたなら付き合いの長い友人もいないだろう。たった独りきり――曾祖母と祖父母、両親、妹二人に叔父夫婦に従兄弟いとこと、大勢に囲まれ賑やかに育ってきたルカには想像もできないことだった。

 せめて祖父がちゃんと受けとめたなら救いもあっただろうが、車で二時間ちょっとのところに住んでいながら、こんなふうに血の繋がった孫をホストファミリーに任せっきりにするような人間だ。とても期待などできそうにない。

 苦々しげに眉根を寄せ、ふとルカは疑問に思った。在学中の休暇はホストファミリーの家へ行けばいいだろうが、ここを出たら――学生でなくなったら、テディはどこへ帰るのだろう? その祖父の家に戻るのだろうか。それとも、学校さえ出てしまえば一人前だろうと大手を振って放逐されるのだろうか? 帰る場所も、待っている人も……こんなふうにテディのことを案じる者も、誰も――


「なあテディ」

 曲が〝This Will Beディス ウィル ビー Our Yearアワ イヤー〟に変わる。なにを云おうと考えるでもなく、自然に言葉が口をついた。

「……これから、もしなにか困ったことがあったら俺を頼ってくれ。俺は、おまえがなにか困ってたら必ずたすける。俺は腕っぷしはそんなに強くないけど、口喧嘩は強いんだ。理屈捏ねて相手を黙らせるのなら教師ビーク相手だって任せとけ。それに、トビーやデックスもいる。みんなおまえの味方だよ。だから……頼ってくれ。もう俺とおまえは友達だ。それは、ここにいるあいだだけのことじゃない、卒業してもずっとだ」

 テディは大きな瞳を見開いて驚いたようにルカを見つめ――そして、眉をひそめて訊いた。

「……そのかわり、とかはつかない?」

「ん? そのかわりってなんだよ。云っとくけど俺は成績は良いほうだし、宿題もきっちりやってるぞ。カンニングの協力しろとか宿題写させろなんて云わないから安心しろ」

 ルカがそう云うとテディは吹きだした。しばらくおかしそうに笑って、笑いすぎたのか手の甲で滲んだ涙を拭う。

「そんなに笑うことかよ。人が真面目に――」

「ごめんごめん。……ありがとう、ルカ」

 テディは目を赤くして微笑んだが、外方を向いていたルカにはその表情は見えなかった。ルカは照れ隠しのように〝This Will Be Our Year〟を口遊みだした。


 もう心配しなくていい、思い悩んでいた日々はすべて過ぎ去ったよ――甘ったるく絡みつくような、それでいてややハスキーなその歌声に引き寄せられたかのように、テディは微笑みを浮かべながら、ルカをずっと見つめていた。

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