THE LAST TIME

烏丸千弦

§ Prologue

Prologue 「厄介払い」

「――学校に三万ポンドだって? まったく、伯父さんも気前がいいな……」


 ふと聞こえてきたその声に、少年は足を止めた。

 廊下に敷かれた毛足の長い絨毯が足音を消し去っていなければ、彼はその会話を聞くことはなかっただろう。しかし部屋のなかの人物たちは、いま話題にしている学校に通うことになる当人が扉一枚隔てたそこに立っていることに、まったく気づくことなく話を続けた。


三万ポンドよ。ま、伯父さんにとってははした金でしょ。それに、死んだ娘名義の口座、結構遺ってたみたいよ。あんな暮らしをしていたのに意外よね」

「そうなのか。まあ、どのみち学校にはやらなきゃならんし、メイドや家庭教師チューターを新たに雇うよりはいいのかね。ハウスに放りこんでしまえば、あとは学校に任せておけばいいんだし」

「なに云ってるの兄さん、そうもいかないわよ。全寮制の学校って、休暇のたびに寮の部屋を出なきゃいけないじゃない。だから留学生や、家が遠い子はホストファミリーが必要なの」

「ああ、そういえばそうだったな。……あの子はじゃあ、休暇のたびにロンドンからこの家に戻ってくるのか。せっかく全寮制の学校に入れたって、それはそれで面倒だな――」

「まあでも、それについては心配はいらないわ」

「? どういうことだ」

「私が伯父さんに云ったからよ。うちがホストファミリーになってあの子の面倒をみるから、伯父さん安心してねって」

「はあ? なんだおまえ、こんな時期に学校探しなんて頼まれて、今頃なんで降って沸いたように孫がでてくるんだって鬱陶しがってたじゃないか。なんの気紛れだ?」

「失礼ね、鬱陶しがってなんかいないわよ。学期ごとにある休みのあいだくらい、いちいちバーミンガムまで帰らなくてもロンドン住まいの私がいるんだから、面倒をみますよって云ったのよ。伯父さんもほっとしてたわ……あの年頃の子に、いったいなにが必要かもよくわからなかったみたいだし。で、あの子の服やなんかを揃えるのにまとまったお金を私に預けてくれたのよ。もちろん遺ってたお金も私がきちんと管理するわ。だってあの子、まだ十四歳ですもの」

「……なんて奴だ。ちゃっかりしてるな、おまえは」

「ちゃっかりって云うけど、面倒をみるんだからそのぶんくらいはもらって当然よね。伯父さんは完全に厄介払いできてありがたいでしょうし――」


 少年は俯いたまま無表情にその扉の前を通り過ぎ、廊下の奥の階段を上がっていった。



 束の間の自室として与えられた、昔、母が使っていたというその部屋には、真新しい制服が掛けられたハンガースタンドと黒い革のペニーローファー、必要な物を買い揃えて詰められた大きなラゲッジとダッフルバッグが置かれていた。

 そこには母の形見も、気に入っていた帽子キャスケットもなにもなかった。自分の知らぬうちに母と暮らした部屋にあったものはすべて――たくさんあったジャズのヴァイナル盤もなにもかも――処分され、ここへ連れてこられたときに着ていた色褪せたシャツやジーンズまでもが、いつの間にか見当たらなくなっていた。常に傍に置いていたリュックサックの中のポータブルCDプレイヤーと何枚かのCD、ヘッドフォンと、ロアルド・ダールの〈Someone Like Youあなたに似た人〉、バロネス・オルツィの〈The Old Man 隅のin the Corner老人〉のペイパーバック二冊だけが、無事残っていた。

 上質なコットンのシャツと、色落ちしていない濃い藍色インディゴのジーンズを身に着けた少年は、その黒いナイロン素材のリュックサックを開けて中からCDプレイヤーと、それに繋がったままのヘッドフォンを取りだした。

 プレイヤーの中にはディスクが入ったままだった。ヘッドフォンを耳に装着し、電源を入れるとシュルル……という微かな音がして〝Paint It, Blackペイント イット ブラック〟が流れだした。プレイヤーを手に持って部屋の奥へと歩き、きちんとメイキングされたベッドの上に寝そべって、少年は二回スキップボタンを押した。

 ミック・ジャガーが、ピアノの音に乗せて静かに歌いだす。

 だらりと両手を広げ、少年は仰向けに寝転がったまま大きな灰色の瞳で天井を見つめた。ベッドの上にはきちんとアイロンが掛けられたパイピング使いのパジャマが置いてあったが、彼はこの部屋で眠るようになってから一度もそれに袖を通してはいなかった。

 踵を擦り合わせて、まだ外に履いて出たことのないデッキシューズを脱ぎ落とし、彼はジーンズのボタンを外してシャツの裾を引っ張りだし、小さく溜息をついた。

 母も、この天井を眺めながら眠ったのだろうか。そのくらいしか想いを馳せることは許されてはいないかのように、この部屋にも母の私物はなにひとつ残されてはいなかった。

 惜しげも無く金を遣って新しい上質なものを買い与えられ、日に三度の食事とお茶の時間まで至れり尽くせりだったが、祖父は一度も自分と同席はしなかった。一度見ただけの深く皺が刻まれた顔の記憶と同じく、自分がいた痕跡など明日この部屋を後にしたならもう、なにも残りはしないのだろう――ミックが人生って素っ気無いよな、と歌う。

 少年は同意するように目を閉じた。

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