第62話

 綾子は心の中で言葉を反芻する。


 ――田川君の奥様、そして洋子にはむしろ不適合だった


 それだけではない、もう一つの言葉も。


 ――二人には癌が他の部位に転移してしまった。癌の多発を生んでしまったのです

  

「二人…」

 綾子は目の前で自分を見つめる男を見た。彼は《芦屋の向日葵》、《イレーヌ嬢》、《陽光の中の裸婦》を背にして熱くなる胸を抑えながら、じっと押し黙るのを堪え切れない様だった。

 彼の熱量は今、体の中で溢れようとしているに違いない。それが溢れ始めた時、そこにどんな事実が語られるのか。

 二人とは?

 森哉は綾子に言った。

 田川洋子とその母親と。

 綾子は言葉をゆっくりと紡ぎ出す。

「哉さん、あなたは私に言いました。自分は日本人一号だと…」

 彼は何も言わず唯首を縦に振った。

「その薬は…、新島さんが、過去に手配してあなたを救った薬でしたね」

 再び、頷く。

「それが後年実際に経って、使われるようになった…、しかしながらそれは不適合者が出る確率が多く、肝臓癌を抑制する目的が、進行を進めてしまうと言う、まるでもろ刃の刃のような薬だった…」

 哉は強く首を縦に振ると、綾子を見つめた。

「ええそうです。あなたの言う通りなのです。薬は本来多くの治験などを経て使用される必要があるにも関わらず、新島はそれを見向くことも無く、直ぐに使えるようにした」

「少ない実験の成功例だけを頼りに…あの731部隊で行われた物を使って」

 哉は拳を強く握りしめて、唯溢れるものを抑えようと必死に耐えている。

 何に耐えようというのか。

 綾子は哉の心の内を覗き込みたくなった。彼の中で溢れ出て行こうとするものは一体何だろう。それは自分が生きた過去に対しる何かだろうか。

「兄さん」

 穏やかな老婦人の声が溢れ出るのを抑えようとしている彼の拳に触れた。

 その声に彼は振り返り、老婦人に顔を向けた。

「もう、自分を責めるのは止してください。兄さん、あなたが生きることができたのは、言いたくはないですが、731部隊に居た頃の研究があっての事…、それよりも二人の命を奪ったのは病気の為…だれにも病気には勝てない」

「頼子!!」

 男の怒声を含んだ声が響いた。しかし、直ぐに再び穏やかな口調へと戻り、老婦人の名を呼んだ。

「…頼子、しかし…しかしだ」

 その時彼の背が一段と大きくなったように綾子は感じた。それはきっとそこに抑えていた大きな塊が動き出したのだと綾子は思った。それこそが彼が耐えていた本当の大きな塊に違いない。

「頼子…私が、いや俺が許せないのは…田川さんの奥さん、洋子だけじゃない、新島…あいつは、…あいつは、護すら…あの薬で死に追いやったんだ!!」

 背にした絵を震わす様な感情の爆発がそこに起きた。

 男の身体の内から発せられたその感情が間違いなく絵を震わせて、いや絵だけではない、老婦人と綾子の心の内も同時に震わせた。


 ――護すらも死に追いやった!!


 綾子はその言葉を追うように森哉を見た。

「私は護の最後が近くなった頃、あいつの住む西宮のアパートに行ったんだ」

 その言葉に老婦人が目を見開く。まるで初めてその事実を聞いたような表情で。綾子もその見開いた老婦人の目を凝視する。その瞳の奥には明らかに動揺と驚きが同時に去来している。

「…兄さん、それは…」

 森哉が老婦人の視線を避けるように視線を外す。

「私は、知らないことね…」

 彼は黙って頷いた。それを見て綾子は老婦人の方へと歩み寄るとその小さな背に手を置いた。その背が小さく震えているのが分かる。ここにまだ語られていない真実があるのだと綾子は感じた。

 その真実に私は触れなければならない。

 

 ――綾子、あなたはあなたの方法で向日葵の秘密を探るのよ


 突如、姉の声が綾子に響いた。

 いや、聞こえた気がした。それは確かに鼓膜を震わせて。

(違う…、これは私の何かに対する願いの声…)

 姉は今ここにいない。居るのは自分と老婦人と森哉の三人だけ。

「哉さん」

 綾子は声を出した。

 その声に二人が振り返る。

「教えてください。その時の事を。まだ語られていない、あなただけが抱えている秘密を」

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