第63話

 固い革靴の踵の音が鳴った後、ドアを引く小さな音が続いた。

 開かれたドア向うに立つ陽に焼けた精悍な顔の人物に驚きの表情が浮かんだ。


 ――先程、彼等は行政の者だと自分には言った。


 しかしそれは違っていた。

 驚く人物の目は大きく見開かれてた。しかし彼はやがて何かを理解したのか、首をゆっくりと縦に振るようにしてやがて、自分に言い聞かせるように、声を絞り出して言った。


「…兄さん」

 

 長い年月で錆びついていた言葉が、発せられた後、声の後ろで何かが動いた。

 精悍な顔つきの視線がそれを捉える。しかし彼のその視線はまたそこで大きな驚きと共に声となって響いた。

「あなたは…」

 驚きが声を枯らせた。

 沈黙が有った。

「久しぶりだな。土岐君」

 その声に彼はもう一つ錆びついたままの言葉を発した。

「…新島さん」

 言い終わると新島の唇の上で火が灯った。それが煙草の明かりだと護は分かると、ややあって咳き込んだ。その咳き込む姿を新島の鋭い視線が追う。

「土岐君、悪いが入るぞ」

 すると勢いよくドアを後ろ手に閉め、洗面台へと向かい、咥えた煙草をシンクの底に押し当てて水で火を消した。

 後ろで咳き込む護が顔を上げて、新島の顔を見た。

「まだ吸ったばかりの煙草でしょうに…」

 新島は微笑した。

「死にかけた病人の前で悠長に煙草を吸うほど、俺は悪い奴じゃない」

「来てくれたんですね…」

 微笑を浮かべて新島に言う。

「そうだ。俺には君に会わなければならない理由がある。それは君の方がよく承知の筈だろう」 

 そこで新島が振り返る。振り返ると哉に視線を送る。その視線を受けた哉が弟に向き直る。

「…護、久しぶりだな…あの時、戦時中の芦屋空襲で一命をとりとめて以来だ」

 兄の言葉は濡れていた。濡れて、それが湿り気を帯びた感情となって弟の背に触れた。

 それは強い力となってやがて弟を引き寄せた。

「兄さん…」

 兄を呼ぶ弟の声も濡れていた。強く抱き寄せた弟の背の筋肉は痩せこけていた。兄の哉はそれが十分すぎるほど分かっていた。自分は新島から聞いていた。


 ――弟君はもう助からぬ。持って数日の命だ。


 その電話を新宿に在る自分の写真スタジオで聞いた時、哉はすぐにでも駆け出したくなる思いに突き動かされた。その突き動かされる感情のまま鞄を背負い、急遽新幹線に乗り込み、新大阪までやって来た。

 夕暮れ時の新大阪で降りるとそこで急に誰かに腕を掴まれた。振り返れば新島が居た。彼もまた同じ新幹線に乗っていたのだ。

 互いに久方ぶりの対面だった。

 妹婿といっても東京ではほとんどが顔を合わすことが無かった。それは相手が政治家であるという事でもあったが、ややどうしても距離を取りたくなるのだ。やはりそれは弟から、最愛の人を奪ってしまったといううしろめたさからだった。

 しかし実は弟の事については彼から情報は得ていた。これは妹から聞いたことだが弟の病気の事も、それを含めた弟の行政的な支援も全て彼の政治的手腕という裏の手で回されていたのだ。初めてそれを妹から聞いた時哉は驚いた。

 何故なら哉にはその理由が分からなかったからだ。

(いくら力の在る政治家とは言え、そこまでする必要があるのか…?)

 しかしそこで哉の心の歩みは止まった。


 もしかすれば、

 彼の心のどこかに護に対する一片の情だろうか。

 それは…

 最愛の人物を奪ったという事に対する情け…


 新島の相貌に決して浮かばぬ感情。


 それこそ

 愛であると哉は思っている。


 そう思って歩みを始めた時、突如、腕を掴まれた。

 いやそんな気がした。

 まるで身勝手に走り出そうとする愚者を掴む腕。

 腕を掴まれ振り返ると、男は言った。

「俺も彼に会う必要があるのだ。森君、一緒に行こうじゃないか。君もその為に遥々東京から来たのだろう」

 それから二人連れだって用意された黒塗りの車で西宮のアパートに向かった。そこに着いた時には陽は暮れていた。辺りには薄暗い闇ができていた。

 車が着くと誰かがアパートの階段を下りてくるのが見えた。新島はその人物が車のドアを開けるの待って車外に出た。

 夕暮れの闇の向こうでその人物の声が聞こえた。

「新島さん、久しぶりです」

「田川君、久方ぶりだ。それで彼の部屋は」

 聞くと男が手短に答えた。

「四階の一番右側です」

(田川…?)

 哉は心が揺れ動いた。

(この人物はもしや…)

 実は哉は妹の頼子から聞いていることがった。彼女の長女である洋子は或るところに養子に出された。それは戦後に東京で世話になった田川夫妻の所にだと。

(あの…田川君・・か?)

 夕闇に映る彼の顔ははっきりしないが、新島に対する慇懃な口調が彼であることを認識させないではいられない。何故なら彼はつい最近まで新島の秘書をしていたからだ。

 哉も車外に出た。出るとその人物の視線が動いて自分を見ているのが分かった。

 その視線を声で制するように新島が言う。

「田川君、森君だよ。洋子の…」

 そこまで言うと影が動くのが分かった。だがその影が動くのを制するように新島が言った。

「俺達は今から彼の所に行く。誰も来させないようにしてくれ…勿論、娘もな」

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