第60話

 新地の夜は降り注ぐ太陽より輝いている、浦部はそう思った。

 太陽の輝きは勤労に勤しむ人々の顔を照らすが、ここでは夜と言う静寂とは無縁の別の明かりが人々の顔を照らしている。

 照らし出された人々の顔はどうだ?

 深く刻まれた皺の奥に欲望を潜ませているじゃないか。

 それは何を期待しているのか?

 これからの仕事で得ようとする利益の笑みを隠そうとしているのか?

 それとも寄り添うように腕に絡みつく夜の蝶たちの羽の香気の先を期待しているのか?

 浦部は吸っていた煙草を投げ捨て、踏みにじる。

 さっきこの先の裁判所界隈の画廊でゴッホの作品のレプリカを今店に連れ込んだ客と一緒に見た。

 確か作品のタイトルは「夜のカフェテラス」という名だった。

 カフェテラスから差し込む明かりは眩いばかりの黄色だった。その黄色は太陽のような自然の明かりじゃない。

 浦部は店の前で通りを照らす明かりを見た。

(そう、あの明かりはこの夜の新地を照らす人工の明かり、いや科学の明かりか…)

 連れ込んだ客は興味がないのか画廊を直ぐに出た。

 浦部は少しだけ、画廊主と話をすると通りで待つ客の顔を見た。外で待つ客の顔はゴッホの放つ芸術の明かりにはそぐわない。

 客には高潔な作品が照らし出す明かりなどよりも、新地の夜の香気を浴びた明かりこそがふさわしい。

 そんなことをどこか自嘲気味に重いないながら笑うと、画廊を出て客と並んで歩きながら、新地で馴染みの店「スパイダー」へ上がる階段を上り、扉を開けた。

 薄暗い灯りの中で小さなカウンターが見える。奥にはまた別の部屋が見える。

 薄暗い灯りの中で動く影が見えるが、新地の明るい灯りになじんだ眼には直ぐにそれが何なのか分からない。

「浦部さん」

 男の声がした。

 店員の声だ。薄暗い中で、声主の表情が浮かぶ。

 浦部は軽く手を上げると目で男に合図をする。それで意味が分かるのか、男は小さい声で「こちらの席に」と言った。

 薄暗い中を進むとカウンターの奥まったところに浦部は腰かけた。

 客も同じように腰を掛ける。


 ――スパイダー


 小さな会員制の店だが雰囲気は良い。店の子たちも他の店の様に客に余計なことはしないし、言わない。

 若くて酒と女の前で恰好をつけたい連中には受けないかもしれない。

 唯、ここでは静かに時を過ごさせてくれる。

 その為か、最近は政治に関係する人びとも出入りしているようだった。今も目線を奥に滑らせればスーツを着た連中が奥のソファでたむろしてる。

 連中が選挙ぐらいでしか見たいことがない議員だというのは浦部にはわかる。馴れて来た目でみればいかにもという様な鷲鼻が見える。それだけじゃない、ボディガードなのか、男を立たせている。

 暫く浦部は客と一緒にいたが客の目当ての子が相手をしてくれ始めたので、席を外す為、煙草を吸いに外に出た。

(俺なんかより…、そっちの方が良い営業をしてくれるだろう)

 この店はもしかしたらそういった連中の小さなサロンの様になってるのかもしれない。

 踏みにじる足先で煙草の焦げが風に舞う。

「ねぇ」

 突如声がした。

 その声に浦部が振り返る。

 するとそこに紫のドレスを着て、ゆるく巻かれた長い髪の下から、シャドウの下で浮かぶ黒い瞳が自分を見ている。

 その目はどこか冷たい。

 ゆっくりと階段を下りて来る。

 浦部は女が降りて来るのを充分待った。待ちながら記憶を探る様に、揺れる黒髪から覗く表情を見つめている。

(誰や…?)

 女が浦部の側に立った。

「あなた、浦部さんね、浦部進さん」

 言ってから細い手を差し出す。

「煙草を貰える?」

 浦部は言われるまま煙草を差し出した。

(俺の名を知ってるのか?)

 蝶が止まるような動きで煙草を手に取るとルージュの唇に咥える。

 浦部の差し出したライターの明かりが女の表情を照らす。

 妖艶といえば間違いないが、しかしながら心の内側に潜む何か鉄のような意思を感じないではいられない。知性なのか、それとも何か秘めた意思があるのか。

「あんた…、俺を知っているようだが誰や?どうもスパイダーの子みたいやが…」

 そこで女が煙草の煙を吹いた。

 それは長く、まるで溜息のような思いを吐き出すかのような、深い紫の煙だった。

「あなた…芦屋の向日葵をどうしたの?」

 浦部は意外な言葉に眦を向けて、女を見た。女の表情は微動だにせず、ただ煙の消えゆく先を見つめていた。

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