第59話

 ――俺はあの絵を田川洋子の部屋で初めて見た時、声無く驚いた。


 ルノワールの名画陽光の中の裸婦

 その絵に描かれている女。

 浦部はその裸婦の姿に誰かを重ねた。

 そう、その姿は亡くなった自分の妻、真奈だった。

 真奈の姿はあの絵の婦人と瓜二つだった。

 裸婦で妻を思い出すなんて不謹慎だと思う奴が居れば思えばいい、だがそれは妻を抱いたことしか知らぬ男にしか分からぬことではないか?

 浦部はあの日以来、色彩を取り戻した世界で生きることを決めた。

 生きると決めたら、働きたくなった。

 それだけではない。

 人に頭を下げたことがない自分が不思議と頭を下げることができた。

 まず母親に頭を下げた。

 それから母親を雇っている水産会社の社長に頭を下げた。

「雇ってほしい」

 人を殴ることしかできなかった拳は、大きく開いて重い魚の入った水産物を手に取った。それからの俺は流れに任せるままになった。やがて水産会社の全てを任されるまでになった。

 全てを忘れ、必死に汗を流しながら俺は正しく生きた。

 あの向日葵がいつも俺を見ていた。

 向日葵は俺の人生に夏という季節を運んでくれたのだ。汗にまみれた働き続けるように、そして澄み渡る青空、その下で生きることの輝きと喜びを与える為に。

 それだけではなかった。

 俺は最愛の人に出会ったのだ。


 ――真奈…


 今でも瞼を閉じればお前を俺は思い出す。俺は向日葵の咲く世界でお前を見つけた。それは向日葵が俺に与えた恩寵といえるのではないだろうか。

 汗まみれの俺の額に差し出してくれたお目のハンカチ。それこそが、俺達の新しい人生の始まりだった。

 結婚…、そんな言葉すら無縁の世界だと思っていた俺はお前と共に生きようと願って言ったんだ。

「結婚してくれないか」

 お前ははにかむ様に頬を赤くして俺に抱きついてくれた。俺は良かったんだ。お前が大きな病気を抱えていて、生命のギリギリのところで生きていたことは全て承知だったんだ。それでも俺はお前と行きたいと願ったんだ。

 向日葵は俺の人生で頂点へと運んでくれた。もうこれ以上ないくらいに。

 盗んだものは正当な持ち主に返さなければならない。なんと言われようと)


 浦部は瞼を閉じた。

 だが刑事は言った。

 俺が渡したあの《芦屋の向日葵》の正当な持ち主は死んだと。

「洋子はいつ死んだんだ?」

 浦部の言葉に近松が答える。

「お前がこの病院に運び込まれる前に、安治川に浮かんでいた」

 浦部は息を吐いた。

「《芦屋の向日葵》は確かに俺が盗んだ。それは間違いがない」

 金縁のサングラスの下で近松の眼が動く。それは浦部の表情を伺っているようだった。


 ――真か嘘か


「嘘じゃない。事実だ」

 近松は軽く頷く。

「それからどうした?向日葵の絵は?」

 浦部は瞼を閉じたまま答える。

「ずっと俺が持っていた。確かに盗んだものをそのままにしておくと言うのは…亡くなった当人や遺族には悪かったと思う。だが必要だった、俺が更生して社会に生きる為に…あの向日葵の絵は」

 近松は唯、浦部の話すまま聞いている。感情の起伏の無い落ち着いた口調に真意を探ろうとしている。

「あの日、部屋に忍び込んだ俺は、辺りを見回した。分かったのは台所に僅かな煙草の残りがあったこと。それから忍び込んで向日葵のある部屋に入った時には、あの男は既に死んでいた。俺が危害を加えたわけじゃない。信じまいがどうでもいい」

「それは死亡解剖で既に分かっている。外傷は無かったことはな」

 そうか、と浦部が頷く。

「それから俺は急いで絵を手に取ると止めていたセダンに乗り込んだ。あんたの言う通り少女とすれ違ったのは事実だ。当時、裁判では白をきったがな」

 そこで近松は微笑する。

「…悪かっと思っている。だが俺も捕まる訳にはいかなかった。どうしても…、この彩られた世界で生きたかったからな」

 不思議な言葉に近松が眉間に皺を寄せる。

「彩られた世界…?」

「いや、…何でもない。忘れてくれ。俺の個人的意見だ。それよりも盗人である自分が言うのも何だが、俺はいつかこの絵を返さなければならないと思った。正当な持ち主に…」

「つまり…」

 近松の声が浦部を促す。

「そうやな…、それは田川洋子」

「何故、それが田川洋子だと分かったんだ?」

「新地のスパイダーは俺の取引先もよく使っていてな。そこに自然と俺も出入りするようになった。それで俺はある時、そこで働いていた洋子に声を掛けられたんだ」

「どのように?」

「私はあなたの特徴の或る顔を覚えている。父が亡くなったあの日、向日葵の絵を抱えて逃げる途中、と」

「何?」

 近松が声を上げる。

「そうさ、あの時俺がすれ違った少女こそ、田川洋子だったのさ」

 近松は手早く上着の内ポケットから手帳を出すとページを捲った。自分がその当時事件を担当したときのメモを急ぎ見る。そこには確かに少女のコメントを書き写している箇所が残っていた。しかしそこには氏名は何もなかった。

(そうだ…、通夜に来ていた大勢の中から聞きだしたんやった。名前も聞かんまま…その子は消えたんやった)

 愕然とするような思いで手帳を覗き込んでいる近松に浦部が苦笑交じりに嘲る様に言う。

「ポンコツ刑事やな。裁判の時もそう言われたやろ。名前も分からん少女の証言なんて参考にもならんと」

 そこまで言うと可笑しくなったのか浦部は笑い声を漏らした。その笑い声に反応して近松が舌打ちする。

「まぁええ。ミスはしゃぁない。きっちり取り返すだけや」

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