第48話

 洋一郎はミラノ中央駅でアレックス卿を待っていた。

「洋一郎。明日良ければ時間を作ってもらえないか?」

 昨日、欧州企業との会合の後、アレックス卿からそう言って誘われた。

 明日は束の間のオフだった。それを見越して卿が洋一郎を誘ったのだ。

 特段、予定があるわけでもない洋一郎は、卿の申し出を受けた。

 卿とはアムステルダムからスイスを経てこのミラノまで一緒に行動をしてきた。卿とはこのミラノで別れることになっている。卿はこの後、ミラノからスコットランドへ戻る。

 いわば最後の終わりを洋一郎と一緒に過ごそうと考えたに違いない。

 勿論、娘の誘拐は気になるがあまりそうしたことが露骨に見える行動はしたくないと思っていたので、卿の誘いに乗ることにした。

「ではミラノ駅前で朝九時に会いましょう」

 そう言って卿と別れた。

 腕時計を見る。

 九時を少し過ぎていた。

(卿は待ち合わせに遅れているようだ)

 洋一郎は思いを伏せると駅前を歩き出した。

 駅前の広場は整然と並ぶ石畳が敷かれ、その上を多くの人が歩いている。

 洋一郎はそんな人々の間を抜けるように歩き、やがて立ち止まると駅舎を振り返った。

 洋一郎の眼前に強大なミラノ駅が見える。

 1864年に開設された交通建築家ウリッセ・スタッキーニ設計の美しい駅舎が洋一郎の面前で大きく広がっている。

 洋一郎は思わずため息をした。

(素晴らしい駅舎だ。日本でも有名な建築家はいるのだろうがこうした文化の香りを含んだ美しい建築を造れるような建築家は一体何人いるだろうか?ミミラノというイタリア北部の町の空気を十分に含んだこのような建築物を見事に表現できる、そんな建築家が・・・)

 洋一郎は焦がれるように駅舎を見る。

(今娘たちが誘拐されて大変な時期なのは良く分かっている。だからこのようなことを思うのは不謹慎なのだが・・・もしも、もしも私がこの事業を成功させたら日本に戻り自分の僅かばかりの私財を投資して、このような素晴らしい美術館を造ってみたい・・・)

 そう思う洋一郎の心にある人物の顔が浮かんできた。

 その人物は洋一郎の思いに微笑を浮かべるとやがて消えて行った。

(護さん・・)

 洋一郎が拳を握りしめる。

(もしかしたら今私達家族に降りかかったこの誘拐事件はあの戦後の焼け野原から思い続けていた互いの願いの時を強く引き寄せたかもしれませんね)

 駅舎を見上げる洋一郎の頭上を鳥が飛ぶのが見えた。

 その鳥は大きく旋回するとやがて駅舎の向こうの空へと消えて行った。

(護さん・・)

 洋一郎が再び問いかける。

(あの向日葵を飾る美術館を私は造る時が来たのかもしれません。それはこのミラノ中央駅の駅舎のように美しく聳え立つのです)

 その時、洋一郎の背を誰かが叩いた。

 洋一郎が振り返る。

 見ればそこに帽子を被ったアレックス卿が微笑しながら立っていた。

「洋一郎、遅れてすまない。少しばかり寝坊をしたようだ」

 笑いながら卿が帽子を取った。良い一郎が笑顔を向ける。

「何、お気になさらずに。何分今日まで忙しく長い旅でした。疲れが出ていてもおかしくないです」

「洋一郎の言葉に私は感謝しかないな」

 そう言って卿が再び笑う。

「それじゃ、行こうか。洋一郎」

 言ってから卿が歩き出す。

 卿の足取りは駅の中へと向かっていた。慌てて後を追うように洋一郎が歩き出す。歩きながら失礼だとは思ったが洋一郎はアレックス卿に尋ねた。

「それで、サー。これからどこへ行くのです?」

 すると卿が立ち止まって振り返った。

「洋一郎。ミラノ駅舎の中を見学しようと思っている」

「駅舎の中を?」

 少し意外に思った洋一郎の不思議そうな顔に向かって卿が言う。

「いや、ガレリアのカフェでコーヒーを飲むには少し早いからミラノ駅舎の中を見学しようと思ってね。なんせ駅舎はソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ出演の映画『ひまわり』の最後のシーンに使われた場所なんだ。映画の公開からもう十年近くも過ぎているのに私は行ったことが無いから君との別れの日の記念に訪れるにはいい場所だと思ってね」

「ああ、あの映画『ひまわり』の・・」

 洋一郎が思い出したように呟いた言葉の後に続いて卿が頷く。

「では、行こう、洋一郎。駅舎の見学の後はガレリアのカフェに行き、その後は私の馴染みのレストランで食事をしよう。そこで芸術の事や君のこれからの夢など、沢山は話そうじゃないか」

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