第49話
乾海運の総務部長である田林は朝から忙しく過ごしていた。
明日は乾グループの定例役員会である。その為、役員会で決済を求めたい各方面の承認事項を一つひとつ目通ししながら、不備がある点や疑問などを各部署に確認しているうちに柱時計に目をやると正午前になっていた。
柱時計を見ながら不意に社長は今頃どのあたりにいるだろうと、田林は思った。
そう思うのも無理が無かった。
先程まで乾建設に新島の若先生が来ていた。勿論、会社が違うので直接対応はしなかったが、当人が帰った後、乾建設の社長が困った顔をして部屋に入って来ると田林に言ったのである。
「若先生…、例のダム建設の件、かなりやっかむ感じで私に言うんだよ。今、どうなってますかって?」
苦笑ともいえぬ溜息交じりで呟く。
「何でも親父の新島先生が大分、急いでらっしゃるようでね。まぁこちらとしては水面下で進めているあの件も洋一郎の承認を受けていないことだし…」
そこで声の口調を落とす。
「勿論、今騒動になり始めたあの件も話しができないから、今日は無理矢理納得していただいて渋々帰ってもらったが、これでは早い内にまたやって来るだろうな」
田林は柱の時計が動くのに気づき、自分の心の内に置かれた言葉から覚めて、手元の承認事項を手に取った。
(社長が長期不在で色々進んでいない案件もある。明日の役員会はそうした事項が盛り沢山だ)
こいつは、昼抜きかもな…、
そう思った時である。
電話が鳴った。田林は立ち上がり電話を取る。
「はい、総務の田林です」
電話向うで受付の女性の声が聞こえる。
その女性の言葉に思わず田林は舌打ちしそうになった。
その一瞬の間を置いて、田林は言った。
「…分かった。それでは今から一階に伺うから、来客室の方へ通しておいてくれないか」
田林は急ぎ電話を置くと、椅子に掛けていたスーツの上着を手に取り、部屋のドアを閉めた。
気分を抑え込む様に上着に袖を通しながら、急ぎ足でエレベータへ向かう。
向かいながら田林はふと大きなため息をついた。
(今日はつくづくそうした方面の来客の多い日だ)
エレベータのドアが開く。乗り込んで田林はドアを閉めた。
(つくづく、うちも政治家が良く来るようになった…)
そう思いながら階段の数字ランプが点灯しているのを見つめていると、やがてドアが開いた。
ドア向うに一階の大きな吹き抜けが見えた。そこには大きな壁が掛けられている。スペインのジョアンミロの作品だと、社長から聞いているがそれに目をくれることなく。一直線に待合室へと向かい、ドアをノックした。
「どうぞ」
中から若く甲高い声がした。
その声に応じるように田林がドアを開けた。簡単な待合室に置かれた黒い革張りのソファに腰を掛けている身なりの整った人物が見える。その後ろに男が立っている。二人だった。
ちらりとその男に田林が目をやる。それに感づいてソファに腰かけた身なりの整った男が田林に言った。
「ああ、君、気にしないでくれ。彼は私のまぁボディガード兼秘書だ。彼は私同様新島先生の所にも出入りさせていただいてるから安心してくれよ」
ボディガード言われた男は精悍な顔つきで田林をじろりと睨む。
(嫌な奴だ…)
田林は思った。
思いながら視線を男に戻す。
それは、ボディガードだけではない。目の前のソファに腰かける男に対しても思ったことだ。
端正な顔つきに鷲を思わせる鼻と眼光、まるで猛禽類のような鋭さを併せ持ち、おそらく居並ぶ若い政治家たちを蹴落としてたと思わせる人間の強靭さを感じさせる。
田林はそう噂を聞いている。
(満更、嘘じゃないだろう)
田林は向かいのソファに腰を下ろして、灰皿を出した。すると男はその灰皿を手で横に押しやった。
押しやると笑いながら言う。
「僕は新島先生のように煙草を吸わない。嫌いなんだ」
それからやや膝を崩して、足を組んだ。革靴の先が揺れ動き、田林を向いて止まる。
「君も忙しいだろうから、用件を手短に言うよ」
男はそれからスーツの内側から小さな手帳を出して、見ながら言う。
「新島先生が進めているダム建設、あの件だがね。あれはどうなっている?」
田林は困った顔になった。自分はグループ企業の全部を知っている筈がない。実はこの男、数日前にもここにきて自分に同じように聞いた。その時も自分はこのように言った。
「申し訳ないですが、私は乾建設の直属社員ではないので知りません。乾海運の社員ですので…」と。
男は同じ返答をするのを見越して先に切り出した。
「田林総務部長でしたね。あなた…、乾海運だけでなく、乾建設の役員でもあるでしょう?別に乾海運の社員であってもグループ会社の役員を兼ねていることなんてざらにある」
(良く調べたな)
心の中で舌打ちしたくなった。
その通りである。
現乾海運の役付け社員の数名は子会社であるグループ企業の役員を兼ねてる者が居る。
田林もその一人だった。
役員名簿を見ればそれが分かることだが、それを細かく覚えているものなど、それほどいるだろうか。
田林は息を吐いた。
「まぁ確かにそうですが…、それでも私は平の方でしてね。申し訳ないですが、その件は直接、建設の乾社長に聞いてもらった方がいいですが…」
顔を上げて男を見る。
しかし、男は瞼を薄く閉じたまま何も言わない。
何とも不気味な表情だった。
何も言わず、時が揺れ動く。
ぱたんと手帳が閉じた。
「そっかぁ」
どこか間延びしたような声を男が出した。
「知らないんじゃしょうがない」
男は立ち上がると、後ろに立つ男に目をやった。
「ちなみにこの部屋にカメラはあるのかい?」
唐突な質問に田林は頭を捻った。
意味が分からない。
「いえ…、無いですが」
「そうか」
男は言ってからちらりと目を後ろ立つ男にやった。
(何…だ…)
そう思う前に突然田林の頬に激しい痛みが走る。走ったと思った時にはふらついていた。口の中で血の味がした。
思わず顔をあげて目を向いた。目の前にいつの間にかボディガードの男が拳を突き出して立っている。
「一体、あんた!!何様何だ」
怒声を放つ、田林に向かって顎を突き出すように男が言った。
「あんまり、人を馬鹿にするものではないですよ。田林さん、こっちは必死なんだ」
「な、何を言ってやがる」
田林は意味が分からないことに怒り向ける。
「今ここで起きたことを誰かに話したところで直ぐにもみ消せれるよ、簡単な事なんだ。ある話の途中であなたが激高して私に手を出した。それでボディガードが私の身を護るために正当防衛」
「何を理由に私があなたに手を出したと言えるんだ!!」
男は再び手帳を広げた。
「例えば…、あなたが私にある弱みを握られていてそれがばれそうになった?とか」
「弱みだと、一体どんな???」
男が笑った。
田林は男の笑い声が終えると腫れあがる唇を抑えながら、男の鷲のような鋭い眼光を見つめた
「あなたはこのダム建設で乾社長の同意もなしにあることを進めたでしょう?それはダム建設で沈む土地や権利の買収…。それをグループ総帥の乾社長の同意を頂く前に、新島の若先生、乾建設の社長と共同してね。おかげで誰も知らない水面下で面倒な裁判沙汰になりかけている。それを突然訪問してきた私に知られて慌て驚き、脅されたと思ったあなたは正気を無くし、激高して私に手を出した、というのはどうかね」
田林は真っ青になった。
まさに青天の霹靂だった。
それは自分と犬建設の社長しか知らないことである。
元々、このダム建設に乾建設は反対していたのだが、叔父である乾建設の社長は甥の洋一郎自身がエネルギー事業を今後の軸にしたい秘中の意思を感ずるところがあり、いずれ、ダム建設の承認が下りることを前提に田林と新島の若社長と秘密裏に該当土地の権利の買収を進めていたのである。
勿論、いつまでも秘密裏には出来ないことだから明日のグループ役員会でもそのことは報告することになっていた。
だが、その過程で或る集落の権利者と争議になった。相手は当社と裁判をする意向であるとこちらに通知してきて来たのだ。しかし、それらはまだ乾グループ内でも誰も知らないことだった。
それをこの男は知っているのである。
薄く閉じた瞼が開き、田林をぎろりと睨む。
「その頬に受けた一発は乾総帥からの一発だと思ってください。もし秘密裏に進めたことで地元と争議になってみなさい、こんなものじゃすまない。新聞、メディア各社あげての騒動でグループの信用はがた落ちだ」
大きく笑うと男は応接室のドアまで歩き、ノブに手を掛けた。
「まぁ、いい。知らないものは知らないのだろう。まだこちらの方が良く知ってるみたいだ」
それからドアを開けた。
「実は新島先生と私とは少しこのダム建設に対する本当の目的が違うんだ」
(本当の目的…?)
田林は震える唇を噛む思いで男の言葉を噛みしめる。
「田林君、また、来るかもしれないし…、来ないかもしれない」
男は田林を振り返ることもなく出て行くと、ボディガードの男がゆっくりとドアを閉めた。
その時、ドアを閉める隙間から覗く男の冷たい視線がどこか笑っているように田林には見えた。
田林はその場に崩れ落ちそうになりながら、今来た男の名前を地団駄踏む思いで心の中で呟いた。
鬼頭竜二…
知られたくないことを嫌な奴に知られてしまっている…
口の中で血を舐めると彼等と同じようにドアを開け、エレベータへと急ぎ走り出した。
走りながら田林は乾建設社長へこのことを直ぐにでも報告せねばならぬと思った。
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