第39話
権田は元町のギャラリー辞め、北野の方で自分のギャラリーを始めた頃、店の特色として複製品を扱うことを決めた。
権田は商売の最初として洋一郎の会社に飾り、その複製品を見た企業の方から注文を受けたいと考え、洋一郎に願い出た。
洋一郎は快諾しただけでなく、訪問する企業との間での斡旋も引き受けてくれた。
勿論、複製品を扱うのは土岐護というのは二人の暗黙の約束事で、権田は洋一郎から聞いた護の尼崎の家を訪れ、そのことを告げた。
それを聞いた時、護は漁師として陽に焼けた笑顔で権田に言った。
「僕みたいな、漁師でいいのかい?」
その笑顔は道で倒れた自分を運んでくれたころと寸分変わらなかった。
まるで太陽に向かって輝く向日葵のような笑顔だった。
しかし、その笑顔が少し曇った。
「清君、実は僕、病気があってね」
「病気?」
そう言って土岐護は腹の下腹部を触った。
「どうも肝臓を悪くしているみたいでね。あんまり長くないらしい」
権田は、驚いて護の顔を見た。
「それは、乾さんには?」
護は首を振った。
「言っていない。それでいいんだ、清君。僕の人生はもうすぐ終わる」
そう言うと護は立ち上がり、権田を手招いた。護は木造の母屋から小雨が降る庭に降りると小さな箱庭のような建物の扉を開けて、室内へ入った。
権田も背を曲げてその室内に入った。
薄暗い部屋の上に天窓があり、そこには小さなステンドグラスがあって、マリアの顔があった。
そこから差し込む光の先に二つのイーゼルがあり、小さな布が掛けられていた。
「見てごらん、清君」
その声が薄暗い暗闇で聞こえた時、布が滑り落ちた。
「おお!」
思わず権田は声を上げた。
そこには差し込む光で輝く二つの向日葵が輝いていた。
「これは・・・」
権田は薄暗闇の中にいる護に向かって言った。
「芦屋の向日葵!!」
権田はそこで思わず唸った。
権田は戦中に見たあの向日葵が、伝説の名画であることをギャラリーで働きながら知った。そしてそれはあの大空襲で焼失したということも確かに知っている。
焼失したはずのあの名画がそれもここに一つではなく、二つ在った。
信じられない光景だった。
しかし思えばあの時、護が土蔵のアトリエで描いていたのはこれだったのだ。
「僕の絵を描く腕が君たちの将来に役立つかな・・」
権田はふらつくように歩くと二つの向日葵の前に立った。
「護さん、とんでもない。この絵を見れば一目瞭然です。役に立つなんて・・・正直恐れ多くて、心が震えます・・」
権田は薄暗闇から見える護の相貌を見た。ルオーが描くキリストの様にその眼差しは薄く開かれ、そして僅かに微笑していた。
権田は護の両手を取って言った。
「今は複製品をお願いしますが、いずれは戦争で破壊された沢山の名画を蘇らせたい・・そしてそれができるのは・・護さんだけだ」
そこまで言って権田は涙を拭いた。自然と涙がこぼれていた。
そんな権田の姿を見つめて護が言った。
「清君の願いが叶うまで僕の命が持てばいいけどね」
にこりと笑うと護が続いて言った。
「ところで、清君、この絵を洋一郎君に届けてくれるかい?」
権田は護を見た。
「この二枚の絵を?」
護が首を振った。
そして右のイーゼルに立って絵を手に取った。
「こちらさ」
権田はその絵を受け取った。ずしりとした重さを手に感じた。
「重いかい?」
「ええ」
権田が返事を返す。
「ゴッホは厚塗りだからね・・」
「成程」
そう言って権田は護を見た。
「もう一つは?」
護は頷いた。
「こっちは鍋井先生から預かった《芦屋の向日葵》なんだ。この絵は僕が生きた青春の全てを映している。鍋井先生はこの絵は或る画家が描いた模写だと言ったけど、僕にとってはゴッホが描いた向日葵以上に、この絵は《芦屋の向日葵》なんだ。だから自分の最後まで手元に置いておきたくてね」
「そうですか・・」
権田はそう言ってイーゼルに置かれた《芦屋の向日葵》を見た。
「それに・・洋一郎君にはその《芦屋の向日葵》を秘密裏に誰にも渡さずに守って欲しいんだ」
その言葉に、権田は振り返った。
振り返ると護の瞳の奥に炎が燃え上がる音を見た。それは間違いなく怒りであったが、赤く天を衝く様な仁王のような怒りではなく、何処か観音のような慈愛ともいえるような静かな愛を引き裂かれたものを代弁するかのような怒りの炎だった。
「秘密ですか・・」
護は頷いた。そしてそっと二枚の古い便箋を渡した。
「便箋ですか?」
そして深く頷くと、白い便箋を出した。これは新しいものだった。
「これを一緒に洋一郎君に渡してほしい。白い便箋は僕がある人物に送った時の手紙にカーボン紙を引いてその下で写し取ったものだ。この絵と一緒に守って誰にも渡さないで欲しいんだ」
権田はそれを静かに受け取ると、護を見た。
「護さん、どうです。今から一緒に乾さんに会いに行きませんか、絵に秘密があるならなおさら・・」
そこで護は首を横に振った。そして権田を見て言った。
「清君、僕は乾のお父さんから温情受けて育てていただいたけど、やはり歴とした乾家の一員じゃない。僕は尼崎の漁師だ。そして洋一郎君は乾グループの若い総帥。だからこうした距離が一番良いと思っている」
権田は護の声が消え終わるのを待って、小さく「分かりました」と言った。
「護さん、僕が責任もってお届けします」
それを来て護は大きく頷いた。
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