3.5 時間の相貌(3) 

「今」について


 以下のような時間の定義をよく目にする。

  1:時間は時点の集合である

  2:時点は長さを持たない

  3:異なる時点の間には前後関係が存在する

 そして、紙に一本の横線を引き、真ん中あたりに点を打って「今」と書き、その左右に矢印を書いて「過去」「未来」と書き込む。これが一般的な時間のイメージなのかもしれない。ニュートン―カント的、あるいは(古典)物理学的時間と言ったらいいか。

 まずこのイメージを壊さなくてはならない。(物理学では、すでにアインシュタインによって壊されている)。

 それにしてもずさんな定義である。長さを持たない点をいくら集めても長さは生まれない。ゼロを何倍しようがゼロである。(だから、物理学的時間を説明する場合は、運動の軌跡にたとえたりする)。

 問題は、時間幅ゼロの「時点」を想定するところにある。例えばゼロ時間だけ存在するものを想定できるだろうか。現れた瞬間に消えるものであっても、極小時間は現れたハズであり、もしそれがゼロ時間ならまったく現れなかったのと同じだろう。存在には持続=時間が必須である。

 「たった今」とか「今、この瞬間」という言葉で、限りなくゼロに近い時間を想定できるにしても、ゼロではない(例えば瞬きする時間)。「今」とは長さを持たない点時間ではなく、「今」と呼ばれる(把握される)時間であり、その中で時は流れるし、過去も未来もそこで生起する。そうでなければ時間(過去も未来も)は存在しない。

 では、「今」とはどのような時間なのか? 

 日本語では「今~しているところ」「今~の最中」という、その「最中」が今である。動詞の様態(アスペクト)で言えば「~ている」形である。この章のはじめで、「日本語には時制がなく、代わりにアスペクトで表現する」と述べたとおりである。

 「今、何している?」の質問に「朝食を食べている」と答える。その時の「今」は朝食の最中として捉えられている。その「今」には朝食に要する時間が含まれる。さらに細分化して、「今、目玉焼きを食べている」とか「今、米を噛んでいる」とか、いくらでも「今」を小さくできるが、それは「今」の時間幅を短くすることではなく、行為の単位(まとまり)を小さくしているのである。切り刻まれるのは時間ではなく、行為(物事)である。

 「食べる」という行為は、食物を箸でつまみ、口に運び、歯で噛み、飲み込むという一連の動作(もっと細かく、神経細胞の電位の移動や筋肉の収縮などを言うこともできる)の全体を指している。そして、食物がのどを通過したあたりで「食べた」となる。

 この「食べる」から「食べた」への一連の動作には、一方向の前後関係を持ったつながりがある。そこに時間が流れる。その流れの只中にいることをさして「今」と言い「食べている」と言うのだ。

 世界はある意味的まとまり(相貌=ゲシュタルト)で分節=出現する。逆に言えば、わたしたちは世界をそのように経験する(出現させる)。そしてその経験の有り様を語るのが述語であり、動詞のアスペクトである。

 例えば、「座る」から「立つ」へ。「座る」というゲシュタルトのただ中にあることを「座っている」と言う(貧乏揺すりしていてもかまわない)。それから「立つ」「立った」を経て「立っている」というゲシュタルトでひとまず安定する。その途中のゲシュタルト・チェンジに注目すると「立ちつつある」(相貌の出現過程)という表現になるし、その意図・意志に注目すると「立とうとする・している」という表現になる。

 ところで、「今、朝食を食べている」というときの「今」は「朝食を食べる」という相貌体験の全体を指している、と述べた。「今」の時間幅は朝食時間に相当する。では、A氏より早食いのB氏がいて、同じ内容の朝食をB氏の方が早く食べ終えたとしよう。このとき、B氏の「今時間」はA氏よりも短い/早いと言えるだろうか? ぼくは言えるような気がする。のんびりした南の島より都会のほうが、老人より子どものほうが時間の進み方が早いような気がする、という実感にも合っている。

 これは、時間の流れ(経過)を何によって測定するか、という問題だ。地球の自転や振り子運動あるいは粒子の振動などの物理現象からは、比較的均一で客観的な時間のスケール(定規)が得られるだろう。いわゆる物理学的時間である。それに対して相貌経験を基準にした時間スケールは生物学的時間の一種と言えるだろう。

 生物的時間とは、本川達雄「ゾウの時間ネズミの時間」を思えばいい。動物の生涯における心臓の拍動数は、その寿命やサイズに関わらずほぼ一定だという。ネズミのような小さくて寿命の短い動物も、ゾウのような大きくて長生きな動物も、同じく心臓は15億回打ち、30億ジュールのエネルギーを消費して死ぬ。この心臓の拍動を基準にした時間(生物学的時間)を考えるならば、どちらも15億拍動時間生きて死ぬ。ネズミはちょこまかと素早く動き、成長し、子孫を残し、と早いスピード(物理学的時間)でゾウと同じ一生分の(生物学的)時間を生きるわけだ。

 つまり生物学的時間では、動物のサイズ(スケール)によって時間のスピードが変わる。それは体重の1/4に比例し、エネルギー消費量に反比例するという。体重が軽く、ちょこまか(ネズミのように)動く子どもの方が、ゆったりと動く老人より時間のスピードが速いというのも納得できる。

 ともあれ、物理学的時間の呪縛から解かれて見れば、時間のスピードは必ずしも均一ではないと分かるだろう。そこで前回(「時は流れるか?」)の宿題である「川の流れ」の比喩に戻る。

 同じ川(岸辺のない大河)にすべての物事が同じスピードで流されているのなら、それは流れていないのと同じではないか、と前回書いた。しかしそれぞれの流れるスピードが違うのなら、時の流れを川の流れるに喩えることも根拠付けられる。実際にぼくたちの周りには、ネズミやゾウや、遙かに長いスケールで成長する樹木や鉱物、ほとんど変化しないように見える山や星座の配置などがあり、それらとの対比などから「時間の流れ」を実感しているのではないだろうか。

 生まれてはかなく消えていくもの、いつまでも変わらずに残るもの、それらを見渡しながら、いずれ来る自分の消滅(死)を思うとき、人は時の流れを実感するのだ、と思う。

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