3.1 日本語に時制はない(1)
「歴史は思い出である」と言ったのは小林秀雄だったろうか。
思い出は、思い出すかぎりにおいて存在する。忘れてしまった思い出や、思い出せない思い出は、もやは思い出ではない。歴史(過去)もまた、そのようなものなのだろう。(忘れていたはずの思い出が突然よみがえることがある。それって、歴史の復讐ってヤツか)
ただひとつ、ぼくが付け加えたいと思うのは、思い出は語り継がれる、ということである。つまり、胸にしまわれているだけでなく、個人を越え出ることもある。語り継がれることが歴史を歴史たらしめる。ぼくはそう思う。
このような歴史観というか、歴史への態度は、心情的には多くの日本人に共感されるのではないだろうか。(過去から未来へ進歩・発展を続けるという直線的な歴史観は、たぶん近代西欧の特殊な〈資本主義的な〉思想だろう)
さて、ここで注意して欲しいのは、思い出にしても歴史にしても現時点に立脚し、そこから眺めている、ということである。思い出は過去にあるのではなく、思い出される今・ここに立ち現れるのだ。歴史は語り継がれる今・そのたびに(物語として)形成される。
「今・ここ」中心主義である。独我論的といってもいい。それが日本語の思想の大きな特徴のひとつだ、とぼくは言いたい。日本人の精神の奥底を規定しているもの、ということである。
逆に言えば、「今・ここ」を超越した絶対的な視点(キリスト教的な神の視点)を持たないということである。常に「今・ここ」において生起する物事のただ中にあって、その関係性に注視するのが、日本語=日本人の大きな特徴といえる。
その時間・空間の認識構造のうち、まず時間について取り上げよう。文法的には〈時制〉の問題である。
結論から言うと、日本語には〈時制〉はない。欧米語のような動詞の時制による変化(過去形・未来形など)は存在しない。
学校文法では「た」は過去を表す助動詞で、「飲む」が現在形で「飲んだ」が過去形、ついでにいえば「飲むだろう」が未来形とされているかもしれない。しかしウソである。
例えば「飲む」(とりあえずぼくは動詞の「原形」とよぶ)について考えてみよう。今あなたはAさんのグラスに毒薬を入れた。Aさんはそのグラスを口に運ぶ。「さあ、いよいよ飲むぞ」とあなたはAさんを見つめている。
「飲む」「飲む」「あっ、飲んだ」。
この「飲んだ」時はいつか。まさにたった今、グラスの液体がAさんの口に入った(のどを通った)瞬間を言うのではないだろうか。その後は「飲んでいる」「飲んでしまった(飲み終わった)」となり、その後で再び「飲んだ」が登場する。
日本語文法では「飲んでいる」「飲んでしまった」を動詞「飲む」のアスペクト(様態)として教えている。ならば「飲んだ」も時制(過去形)としてではなく、アスペクトとしたほうがすっきりする、というのがぼくの意見である。
つまり、「た」は過去を表すのではなく、「飲む」という動詞(の示す動作・作用)の実現・完了を表すものと考える。時間(いつのことか)は関係ない。
「飲む」という動詞の原形は、「飲む」という概念のみを示すもので、まだ現実の飲むという行為によって満たされていない空っぽの箱のようなものである。それが実際の行為によって満たされたとき「飲んだ」という実現形に変化する。空箱は真空のように陰圧を持ち、満たされることで安定的になる。一度実現して安定してしまえば、その後も変わらない。だから過去の出来事(実現してしまったこと)にも適用される。
ついでにいえば、「飲む」という動詞の原形を他者に投げかけると、その陰圧が働いて充足を求める表現となる。「(ちょっと)飲む?」と言えば誘いだし、「(さっさと)飲む!」と言えば命令だ。どちらも行為による充足を要求する。
(「廊下は走らない」などというような張り紙は実に日本語的な〈ヘンな〉表現である)
日本語に未来形がないのは明白だ。「~だろう」は推量を表しているのであって、いつ(未来)という時を表すものではない。未来(まだ起こらない)のことは分からないから推量するほかにないのである。「~しただろう」は過去を推量しているし、「~しているだろう」は状況や継続的動作を推量するものだ。
つまり日本語は、それは「いつのことか」(時制)への関心よりも、それは起きたか起きなかったか、事実か思っただけか、ようするにウソかマコトかへの関心が強いと言えよう。いつのことかを表現するときは、「昨日」とか「明日」とか「たった今」とか「ちょっと前」とかの時を表す語を補えば済む。日本語はそういう言語なのだ。
欧米語が過去とか大過去、過去完了・現在完了などなど、やたらと時制にこだわるのとは大きな違いである。
この後も、もう少しアスペクトによる時の表現について見てみよう。
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